One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 塩の道は自転車の道(その1:里山の塩)2017/01/28

「里山の塩」
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 里山の塩

自転車に関係なく唐突ですが、僕は自宅で塩を作っている。名称は「里山の塩」。里山で岩塩が採れるの?そうではありません。里山で焚き火をし、海水を煮詰めるという方法で作っている。詳しく説明します。

富山県は、さほど大きくない面積の中に、海抜ゼロメートルの海岸から3千メートルを超える立山連峰まで、非常にコンパクトに収まっている。また世界有数の豪雪地帯であり、一年を通じて太古の雪が解け、伏流水となって富山湾に流れ込んでいる。そんな富山湾の良質な海水、特に水深300メートルのミネラル分豊富な深層水を使って、そこから製塩するのだ。

ホタルイカ漁で有名な富山県滑川市にある海洋深層水分水施設「アクアポケット」(富山県滑川市坪川新31)では、そんな深層水を汲み上げており、脱塩ミネラル水の販売と同時に、高濃縮の塩水(塩分濃度13~15パーセント)を小売販売している。僕はまず最初に、その高濃縮塩水を購入してくるわけだ。

僕の自宅は、富山県射水市の山あいにある。薪ストーブのある暮らしがしたくて、13年前に移り住んで家を構えた。最初は薪用の原木を森林組合などから購入して、薪を作っていたのだが、地元に馴染んでいくうちに、ご近所から倒木や剪定枝などを頂くことができるようになった。

今から10年前の2004年10月、富山県は台風23号の被害に見舞われ、近隣でも多くの樹木が倒された。「薪にして片付けてくれたら助かる」と、声をかけてくださる方が多くあり、ありがたく頂戴したわけだが、この薪を利用して返礼できないものかと考えた。そこで焚き火による塩作りを思い付いた。

「山の樹木が海の塩になって帰って来る」ということで、僕はこれを「里山の塩」と命名した。それ以来、僕は薪の材料になる木を頂いた人には、返礼として「里山の塩」を差し上げることにしている。

ところで塩を英語でSalt(ソルト)というが、そこからSalary(サラリー、給料)という単語ができたらしいことを知った。金銭は人間と人間との間に機能する。塩も金銭と同様というか、歴史的にみれば金銭に先行して、人と人とをつないでいたのではないかと思った。

【写真説明】「里山の塩」の完成。2014年3月、梅の開花が間近。

■ 塩の道は自転車の道(その2:塩の道が自転車の道に)2017/01/28

海洋深層水分水施設「アクアポケット」とS.S.バイク
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 塩の道が自転車の道に

話は突然変わるが、2014年3月、『世界で最も美しい湾クラブ』(ユネスコが後援するフランスの組織)に、富山湾の加盟が内定した。『世界で最も美しい湾クラブ』にはフランスの世界遺産モンサンミッシェル湾やベトナムのハロン湾、アメリカのサンフランシスコ・ベイなど、25の国と地域で36の湾が加盟している。国内では宮城県の松島湾に次ぐ加盟である。なお正式決定は、今年2014年10月の総会においてである。(正式決定された)

この内定を契機として、富山県は湾岸のサイクリング・レーンを整備することを決定した。新たにサイクリング道路を造成するのではない。既存の道路に自転車専用のレーンを設置するのだ。本当に嬉しい知らせだ。そして先日、富山湾岸サイクリング・レーンのルートが発表された。そのルートは、僕が年に数回、海洋深層水を小売してもらっている施設「アクアポケット」の前も通ることになっていた。僕にとっての「塩の道」が、「湾岸自転車の道」になるわけだ。

通常、海洋深層水を自宅まで運搬する際は自家用車を使用するのであるが、今回この僕にとっての「塩の道」をS.S.バイク(※1)で走ってみた。世界で最も美しい「塩の道」であり、世界で最も美しい「湾岸自転車の道」をあらためて再確認するために。

今回は海洋深層水を買いに行くついでのサイクリングではない。実際その日は火曜日で「アクアポケット」の定休日。純粋に「塩の道」をサイクリングしたわけである。

※1 S.S.バイクとは、シングル・スピード・バイクのこと。詳しくは「エス!エス!バイク」の記事を参照。

【写真説明】海洋深層水分水施設「アクアポケット」は、火曜日が定休日だ。

■ 塩の道は自転車の道(その3:水は低いところに流れる)2017/01/28

「里山の塩」作り
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 水は低いところに流れる

自宅から富山湾岸に辿り着く道筋として、まず僕は庄川の堤防を北に向かって走った。庄川は富山県七大河川の一つ。岐阜県ひるがの高原を水源としている。

「濫觴(らんしょう)」。
如何なる大河の水も一杯の盃に溢れるほどの水から始まる。我が家の水道水も、この庄川水系の水を利用している。庄川は冬に積もった雪解け水を集め、真夏の渇水時にも決して枯れることはない。

僕は庄川を北上したのではない。世界中、北が上だと思ったら大間違い。北に向かって庄川の水は低く低く流れている。北に位置する日本海すなわち富山湾に向かって下るわけだ。

季節は夏。梅雨はまだ明けていないが、庄川の鮎漁も解禁され、釣り人達が竿を差す。庄川の鮎は臭みが無く本当に美味しい。もちろん我が家での鮎の塩焼きは、「里山の塩」を使う。本来、海水を煮詰めた天然塩は、塩化ナトリウム濃度が通常販売されている食塩よりも低く薄味である。その分ミネラルが豊富で旨みがある。サイクリングで失った塩分とミネラルを、「里山の塩」で補えば、熱中症なんて眼中にない。

ここ10年間、我が家ではスーパーなどで塩を一切購入せず、もっぱら「里山の塩」で自足している。さらに塩は他の生産物を生み出す。例えば漬物や梅干など保存食の生産に必要不可欠である。料理好きの妻は最近「里山の塩」を使って味噌も作るようになり、麹の自家製も考えているようだ。そうすれば100パーセント自家製の塩麹の出来上がり。

「里山の塩」は販売しない。
もっぱら家族用とお世話になった人への返礼用。僕はサラリーを得る仕事の傍ら、年に数回、製塩している。自宅の庭に石を敷いて作った焚き火場で、鉄の竃(へっつい)にステンレス製の大鍋を設置し、そこで塩を煮詰めるという、極めて単純かつ小規模なやり方である。

天気の良い週末、焚き火を楽しみながら、庭木の剪定や草むしりなどガーデニングをしながら、ついでに製塩もするという規模なので、販売するほど多く作ることはできない。というか、ソルト(塩)はサラリー(金銭)の根元なのだから、金銭を介しないスタンスを保った方が、スマートな生き方なのではないかと思っている。

庄川の下流近くには伏木富山港がある。ユーラシア大陸からの木材が輸入されており、大きな製紙工場もある。下るにつれて、夏空に向かって立ち上る工場の煙突が増えてきた。高圧電線が頭上に伸びる。ウィークデイなので、傍らを大型トラックが頻繁に通過し少々怖い。

途中、田園と分譲住宅地が入り混じった風景の中に、突如として多数の太陽光発電パネルが設置された場所があった。生産活動、流通、エネルギー供給、人々の暮らし等々、それら全てが一極集約的に処理されているような光景だ。人々は、そんな一見効率的であるかのようなシステムからこぼれ落ちないよう、必死になって自分の居場所を探すのだろうか。

分散的・非効率的なことは文明の退化なのだろうか。集権的・一極集中的なのが良いのか。仮に火力発電や原子力発電が太陽光発電にとって代わられたとしても、便利さや快適さを無限に求める既存のマインドセットが変わらなければ、自然エネルギーにシフトしたって何も変わらないのではないか。

一見効率的にみえるが実は非効率的な便利生活。不健康だけど快適生活。そんな生活をあいも変わらず追求していけば、ひょっとして太陽の光エネルギーだって不足するやもしれぬ。太陽にも寿命があるらしい。でも人間の欲望は無限で底が無い。

【写真説明】2014年3月、春の淡雪が残る中、今年初の「里山の塩」作り。約10リットルの高濃縮塩水(塩分濃度13%)を煮詰める。約5時間で1.3kgの天然塩ができる。あらためて薪の火力はすごいと思う。同じ作業をガスレンジで行うとすれば(実際に試したことがある)、かなりの時間とガス消費量を必要とするのだ。

■ 塩の道は自転車の道(その4:水を渡り、また水を渡る)2017/01/28

帆船海王丸、新湊大橋、そしてS.S.バイク
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 水を渡り、また水を渡る(※2)

大型トラックに辟易し、庄川の河口に辿り着く前に僕は東に折れ、早々と橋を渡った。今年の春に開通した牧野大橋だ。

射水平野の田園風景の中をひた走り、富山新港の西岸に到着。ここから湾岸サイクリング・レーンに入る。そこは帆船海王丸が係留されている「みなとオアシス海王丸パーク」だ。

海王丸とは、かつての大型航海練習帆船で、1930年進水。約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年引退。現在富山新港(射水市新湊地区)に係留されている。冬季を除き月に一度の割合でボランティアによる総帆天帆(そうはんてんぱん)が行なわれ、白い帆を広げた優美な姿が多くの観光客を呼んでいる。この日はどこかの小学生たちが遠足(?)で訪れていた。

しかし、いつからこの「海王丸パーク」が「恋人の聖地」になっていたのか僕は知らなかったのだが、そんなモニュメントがあった。そこは左に海王丸、右には新湊大橋が架かり、好天の日には立山連峰を望むことができる場所だ。

富山新港の西岸と東岸を結ぶ新湊大橋は、総事業費、何と約485億円を投じて2年前に完成した。道路は自動車専用道路(自転車通行不可)で歩行者は道路下に設置された「あいの風プロムナード」を歩かなければならない。プロムナードとは広辞苑によれば「散歩道、遊歩道」のこと。

では自転車は?サイクリストはどこを通ればよいのか?実はサイクリストは自転車を降り「あいの風プロムナード」を歩かなければならない。

何事も経験してみなければ意見を述べることができないので、僕は自転車を降り「あいの風プロムナード」を歩いてみることにした。プロムナード入り口のエレベータ乗り場へ辿り着く途中には、監視カメラ作動中の看板があった。

僕はエレベータで上へ上がり、左右をガラスで遮蔽された長い遊歩道を、自転車を押して歩いた。頭上を走る自動車の振動が伝わる。鉄道のガード下を歩いている感じだ。長さ480メートルを歩く間にすれ違った人はたった一人。眼下には同じく富山新港の西岸と東岸を繋いでいる富山県営渡船(越の潟フェリー)が見えた。渡船は新湊大橋開通以前から運航していた近隣住民の生活道である。

夏空の下、こんな日は潮風に当たりながら渡船で渡ったほうが気持ち良かったかもしれない。次回S.S.バイクで渡る時は、渡船に乗ろうと思う。渡航時刻表を事前に調べておいて。運賃は無料だそうだ。その方が新湊大橋の雄姿をじっくり眺めることができる。

海老江浜海浜公園(海水浴場)に到着した。
海開き直前で人の姿は皆無だった。この海水浴場は僕たち夫婦のお気に入りで、毎年一度は海水浴にやって来る。美しい松並木の防風林は無いが、砂浜に沿って芝生が敷かれ夏の青空に映える。シーズン中、全く浜茶屋は出現せず、浜の管理用テントひと張りと、カキ氷を売るテントが一軒だけ例年出現する。映画「めがね」(※3)に登場するサクラさんの氷屋とはいかないまでも、よしずで遮った浜辺の氷屋さんである。

僕たち夫婦がこの海水浴場を気に入っている点は、国際色豊かなこと。富山新港周辺には海を越えてやってきたロシアや中東国籍の住民が多い。中古車販売など母国との流通の仕事に従事しているらしい。透き通るような白い肌のファミリーが、シート一枚だけを持参してきて、浜辺で日光浴を楽しんだりしている。ごちゃごちゃとゴージャスなキャンプ道具に取り囲まれることなく、極めてスマートにたそがれるているのだ。

近くにはヨット・ハーバーもあり、遠くの水平線に帆が見える。加えてシャワー設備も整っている。いいねえ。「みんな、何が自由か知っている。」(映画「めがね」のキャッチ・コピーより)

神通川を渡る。
富山県は大きな河川が多い。神通川もそんな富山県七大河川の一つ。でも神通川には、拭い去れない(否、拭い去ってはいけない)暗い歴史がある。

日本近代化の暗部としての公害問題。「イタイイタイ病」で全国に知れわたった神通川。岐阜県神岡鉱山から神通川に排出されたカドミウムが下流の土壌を汚染した。客土・土壌改良といったいわゆる「除染」作業のとてつもない苦労と、取り返しのつかない被害の甚大さは、富山県民が最も肌身を通じて理解しているはずなんだけど。・・本当に大事なことは水に流してはいけない。

今回設置される予定の富山湾岸サイクリング・レーンは、富山湾の東の端から西の端までを繋ぐ。よってレーンが開通すれば、ルートは七大河川から小さな小川まで富山湾に流れ込む大小さまざまな河口近くを全て渡ることになる。

もしも将来、そんな河川の堤防沿いの既存道路にもサイクリング・レーンが設置されたとしたら・・河川をさかのぼって行けばそこは山。つまり海にも山にも恵まれたコンパクトな富山県が、新たに道路を造成することなくサイクリング・レーンで網羅されることになる。富山県内どこに住んでいようと最寄のサイクリング・レーンにアクセスされることになる。それは常に水の流れに沿った自転車道になる。いつかそんな日が来ることを僕は願っている。自転車は決して水を汚染したりしない。

※2 高啓の漢詩「胡隠君を尋ぬ」より引用
   水を渡り復た水を渡る
   花を看 環た花を看る
   春風江上の路
   覚えず君の家に到る

※3 映画「めがね」は2007年公開の日本映画。舞台は南国の島。

【写真説明】海王丸パークにて。帆船海王丸と新湊大橋の向こうには、天候に恵まれれば立山連峰を臨むことができる。

■ 塩の道は自転車の道(その5:朽ちるからこそ)2017/01/28

左に日本海、右に古志の松原
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 朽ちるからこそ

富山市岩瀬に入る。
岩瀬はかつて北前船で栄えた町だ。北海道からの昆布やニシンが運ばれ、現在では富山県は昆布の消費量が全国一。旧廻船問屋の「森家」も国の重要文化財に指定され保存されている。最盛期の繁栄を偲ばせる豪壮な構えで、玄関から裏の船着場まで土間廊下を通って船荷が運ばれていた。

そんな文化財建築物や地元の造り酒屋等々を核として、岩瀬は町並みを整美・保存している。このような地道なローカリズムがあってこそ、今後グローバルな国際社会を堂々と国際人として渡っていけるのではないかと思う。英会話のスキル習得云々以前に、まずは自分の町や国を語るテクストを個々人が持たねばならないとつくづく思う。皆さんはどう思われますか?

町の風景は公共の財産だと思う。
たとえそれぞれの建築物の所有権は個々人であったとしても、その外観は公共の財産。成熟した先進国と呼ばれる国では、例えばフロントヤード(前庭)に洗濯物を干してはいけないそうだ。芝生や雑草もしっかり管理しておかなければ、近隣からクレームが来る。そんな暗黙の了解があると聞いた。景観はそこに住む人々の貴重な資産であり、それを乱すことは地域の治安と資産価値を下げることになるのだ。

何も大金を支払ってデザイナーズ・ハウスを建てようと言っているのではない。歴史を尊重し風土・風景との調和を考え、品良く、日々小奇麗に心掛ければよいのではないか。

「古志の松原(こしのまつばら)」に入った。
富山県は昔、高志国(こしのくに)と呼ばれていた地域の一部である。古くはヤマト王権の勢力が十分に及ばない辺境だった。「古志の松原」は富山市岩瀬から浜黒崎に至る約8キロに渡った黒松並木である。初代加賀藩主前田利長公(※4)は、北陸道の美観を向上させることと、積雪時における道路の目印として植樹を命じたとされる。

古志の黒松林の中を、富山朝日自転車道(既設)が通っている。天候に恵まれれば富山湾と白砂青松、そして遠くには海に浮かぶように立山連峰を臨むことができる。日本海に日本アルプスですよ。モンサンミッシェルを遥かに凌ぐスケールだ。(モンサンミッシェルには実際行ったことがないけれど)

「古志の松原」の美しい黒松林は。防風林の役目も担ってくれ、冬の北西季節風から人々の暮らしを守ってくれている。しかし黒松も生き物である。虫や排気ガス等でダメージを受けることも少なくない。常緑の松は、古くから永遠の象徴とされるが、元来永遠を保証されたものは無い。だからといって朽ちたり枯れたりすることが絶対悪というわけでもない。朽ちたり枯れたりし、循環するのが自然なのだから。

一方で、朽ちたり枯れたりした樹木を、そのまま放置することが自然だと思ったら大間違い。富山湾岸の松林も我が家のある里山も、全て古来人間の手が入ってきた大自然である。人間も自然の営みの一部なのであって、共生してきた風景がそこにあるのだ。

最近は、我が家の周りの里山も人の手が入らなくなり、荒れてきた。それにつれて少しずつ里山保全が叫ばれるようになり、僕の住む地域でも「金山里山の会」が設立され、ボランティア中心で間伐や下草刈り作業が行なわれてきている。「かなやま・さとやまの会」ゴロがいいでしょ。ちなみに金山とは、僕の住んでいる地域名称である。

ところで富山県は、「草刈十字軍(※5)」発祥の地でもある。そんな伝統をもつ富山県に住み、僕も「金山里山の会」に無理の無い程度に参加し、頂いた間伐材を薪にして塩作りにも使っている。かなり朽ちた木であってもストーブ用ではなく焚き火用ならば問題なし。
山が健康になれば川や水田が健康になり、海も健康になると僕は信じる。「里山の塩」はそんな海と山とをつなぐ存在だと思っている。

塩作りの燃料は間伐材や枯れ木だけではない。古く朽ちてきた自宅のデッキ板や、壊れた道具小屋(2012年、春の爆弾低気圧で倒壊したキットの手作り小屋)の廃材など、可燃物として処理しなければならない廃材も利用する。

我が家は合板を使用せず、無垢材による造りとなっており、薪に転化するのが可能だ。断熱材さえも炭化コルクで天然素材。13年前に家を新築した際、家はリユースできるか、さもなくば朽ちて大地に戻るかをコンセプトに部材等を選択した。当時、家の部材が薪となり、塩を生産するとは思ってもいなかったけれど・・。ちなみに灰は我が家の家庭菜園に撒かれ、「健康野菜(※6)」を育てる。

※4 前田利長は加賀藩初代藩主であったが、家督を異母弟の利常に譲り、越中国(現在の富山県)の富山城、後に高岡城に隠居した。城下町の整備に努め、現在の富山市や高岡市の基礎を築いた。1614年、高岡城にて死去。 

※5 草刈十字軍とは、日本における森林環境保護活動。1973年、富山県大山町の植林地への除草剤撒布に対し、環境破壊を危惧した足立原貫(あだちはらとおる)氏が全国の学生にボランティア活動を呼びかけ、人力による下草刈りを行なった。以来、活動は全国に波及することになった。

※6 「健康野菜」とは我が自家製野菜のブランド名。25年以上もの間、化学肥料、農薬、除草剤が使用されていない土地で作られる。草刈機以外の機械を使わないので、夫婦2人分くらいしか作ることができない。

【写真説明】左に日本海、右に古志の松原、向こうには、天候に恵まれれば立山連峰を臨むことができる。富山は一年を通じてスッキリ晴れわたる日が極めて少ない。しかしそれがまた良い。神々しい山々はむやみにその御姿をお見せにならないものだ。

■ 塩の道は自転車の道(その6:静かに牙を磨く)2017/01/28

水橋の街道筋にて
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 静かに牙を磨く

常願寺川を渡り、富山市水橋へ入った。水橋は静かな漁村だ。しかし日本近代史を紐解けば、水橋は単なる一地方の慎ましやかな漁寒村ではない。そこは1818年(大正7年)、米騒動の発祥地。大正デモクラシーの一端を担った熱い地域だ。

第一次世界大戦による日本好景気、日本資本主義の発展、ロシア革命に伴うシベリア出兵を背景とした米価インフレーション。戦争で利を得る輩とは戦場から離れたところに居る輩というわけだ。米の流通に携わった者たちは、米を投機目的とし、地元への米販売を渋った。このようなインフレ好景気に対して、堪忍袋の緒が切れた民衆(女性が多かった)の実力行動が、ここ富山湾岸に端を発し、全国に波及、ついには時の寺内内閣を退陣に送り、平民宰相原敬内閣を誕生させた。

人間の考えや思いが本当に表れているのは、発せられる言葉ではない。選択した行動にこそ、その人間の真の思いが表れる。静かな水橋漁港のベンチに坐って、僕は休憩していた。夏の穏やかな海を眺めていると、1隻の漁船がエンジン音を響かせ漁から帰ってきた。昨今の円安好景気による原油価格の高騰インフレーションは、漁民達にとって重い負担となっているであろう。今は日々の生業を黙々とこなす。しかしただ寡黙に徹しているだけではない。それは静かに、そして孤独に牙を磨いているように僕には見えた。

ちょっと話題を変えよう。塩と聞いて思い出す歴史といえば、越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に塩を送ったとされる、云わば「敵に塩を送る」逸話を思い出す読者もいらっしゃると思う。しかし僕が思い出すのは、インド独立の父、マハトマ・ガンジーによる「塩の行進」である。

「塩の行進」とは、1930年、当時イギリスの植民地とされていたインドにおける塩の専売制に抗議した行動である。非暴力・市民的不服従を理念として、塩の自国自給と自国民の経済的自立を目指した市民運動であった。ガンジーらは380キロを徒歩で歩き、アラビア海に面したダーンディ海岸に辿り着いた。そこでガンジーは泥交じりの塩を掲げ、「インドの誇りは、この塩にあるのです。」と述べたとされる。これをきっかけに、インドにおけるイギリス支配は崩壊していき、結果インド独立につながったとされる。(※7)

僕は塩というものをただ単に生活必需品としてではなく、自立的な人間のシンボル、海洋国日本の自立的象徴としても捉えたいと思っている。

皆さん御存知のように、日本の食糧自給率はさんざんたる現状である。日本は砂漠地帯と違って猫の額ほどの土地であっても、雨水で作物が育つ温暖湿潤気候。ほんの最近まで食糧自給できていたのに(鎖国さえもしていたのに)、現在はできていない。

さらに僕の住んでいる富山県は、野菜の出荷率が全国最下位であり、県産の木材活用率が最下位レベル。海・野・山に恵まれているにもかかわらず、この有り様である。生きていく上で必要不可欠な食糧を、自ら進んで誰かに依存する傾向を強めているように僕には思えてならない。ひょっとしたら、この国はどこかの国の実質的植民地なのではないかとさえ思ってしまう。巨額債務と食糧依存で首根っこを掴まれ、支配を余儀なくされている国なのかもしれない。

一方で僕は、完全自給自足社会というものは空想の産物、プラトン流に言えばイデアの世界だとも思っている。現実にはあり得ない。縄文時代の人々だって遠い地域との交易活動を行なっていたそうだ。原始時代でさえも完全な自給自足社会ではなかったということである。ましてやグローバルな現代社会において、僕は極端な鎖国的自給自足社会の実現を求めない。

しかしだ。一人の人間として、一個人の日々の暮らし方として、僕は自給自足の方を向いたベクトルを常に心の中に持っていたいと思っている。ベクトルとは力の向きと力の大きさである。実際の行動が重要。世の中を憂うばかりであったり、理想や願いを他人事のように語ったりするだけに留まっていては何も変わらない。

ちっぽけな自分ひとりくらいが何かをやっても、世の中変わりようがないと思う虚無的な気持ちも分かる。でもベクトルは終着点を表しているわけではない。あくまでも力の向きと力の大きさを表しているのだ。そして力とはエネルギーすなわち生命力。何かを行動することが、すなわち生きているという手ごたえなのではないだろうか。

湾岸に沿って水橋の町屋が立ち並び、かつて地元の商店街が活気を帯びていた時代は、さぞ人通りが多かったであろうことを想像しながら僕は水橋を通り過ぎた。人の歩かない町は死んでいく。未来のソクラテスも生まれない。道は移動することだけがその目的ではない。道は懐古趣味に浸るだけではいけない。道は現在と近未来を大いに楽しむ空間だと思う。そうこうしているうちに、アクアポケットのある滑川市に入っていた。


※7 マハトマ・ガンジーによる、非暴力・市民的不服従の実践を裏付ける理論は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの著作『Civil Disobedience(市民の不服従)』にあった。あの『ウォールデン-森の生活』の著者であるソローだ。自恃の精神を説き、自立的生活を実践したソローも、『森の生活』の中でこう述べている。
「食料品の中でも一番ありふれた塩に関して考えてみると、まずこれを入手したいと言えば、海岸に行けるうまい口実にもなる。」(佐渡谷重信訳 講談社学術文庫)
僕も塩にかこつけて、サイクリングしてきたというわけでした。

【写真説明】水橋の街道筋にて。小奇麗にされた伝統家屋の前で、野菜の販売がされていた。

■ 塩の道は自転車の道(その7:水上の暮らしは彼岸を繋ぐ)2017/01/28

川面に映える廣野家
2014年7月に『月刊ニューサイクリング』誌に投稿した原稿です。その後、廃刊となり掲載されないままとなっていた内容をこのブログに掲載します。
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★ 水上の暮らしは彼岸を繋ぐ

海岸線から小さな川を300メートルほど入ったところに、数寄屋造りの建築物があった。国登録有形文化財指定の「廣野家」である。軽妙洒脱な町屋の山居が川面に映える。自然災害のリスクを考えると海岸線近くや川沿いに住まうことに抵抗感があるやも知れぬが、本来、数奇屋とは虚飾を嫌い、質素ながらも内面を磨いて自由に豊かに暮らすことを具現化した建築様式だと思う。

一大事の時はとりあえず逃げる、勇気を持ってすべて捨て去る。希望さえも勇気を持って捨て去る。そこには軽やかでこだわりがない。それはあたかも水のよう。そうなのだ。私たち富山人は、誰もが水上生活者。里山に住んでいても水上の暮らし。冬は雪の上に逞しく暮らし、夏は高温多湿な雨や風をやり過ごしながらおおらかに暮らす。快晴の日は極めて少なく常に霞がかかっている富山の風土。雪も雨も湿気も全て水の状態変化。外見上、陸に定住しているようで、心の中では流れるノマド(放浪者)だと自分自身を認識すれば、何となく心の重荷を降ろしたような気分になった。

家は漁村の番屋の如くありたい。潮風に晒され傷みが早い。でも痛んだら造り直せばいいのだ。津波が来たら退散し、波が引いたら造り直せばいいのだ。そんな心意気で常にありたいと思う。

アクアポケットに辿り着いた。
今日は定休日。誰もいない。誰もいない空間だからこそ僕はある人の気配を強く感じた。かつて僕は叔父に連れられ、アクアポケットを初めて訪れたのだった。

実は僕の塩作りにしても、自立的生活の勧めにしても、僕のオリジナルではない。それは私の叔父のオリジナル。かつて私には、塩を作る母方の叔父がいた。彼の生まれは富山県だが、大阪府高槻市という都会に、家族と共に住んでいた。そして、仕事の傍ら滋賀県朽木村という山中で野菜を作ったり、漬物を生産したり、そして塩も作っていた。彼は年に数回、アクアポケットに海洋深層水を買いに来て、たくさんのポリタンクに詰めていった。

10年余り前に「お前も塩を作ってみろよ。」と叔父に言われたのだが、当時僕は全く塩作りに興味が無かった。ただ叔父にしてみれば、自宅には薪が十分にあり、アクアポケットには車で約1時間という僕の状況は、塩作りに最適と映ったのだろう。

そんなわけで先述の通り、僕も塩作りを行なうようになっていったわけだが、その叔父は、3年前の2011年11月、突然他界した。原発事故による海洋汚染を心配しながら亡くなった。享年62歳。早すぎた死。まだまだやりたい事はたくさんあったろう。

僕は、叔父から塩作りを教わった。と同時に、実際に行動することの大切さを教わった。塩は誰でも作ることができる。別に塩でなければならないというわけではない。野菜だってどこでも育つ。ちなみに先述の叔父はテニスが趣味で、若い時、会社のテニスコートの片隅で野菜を育てていた。

僕の話は、全生活をつぎ込んだ環境活動でも何でもない。ただ単に週末等に塩を煮詰めるだけの穏やかで力まぬ行動。でも、そんな軟弱で軽妙な行動であるからこそ、持続可能な行動ではないかとも思う。

別に自給自足の生活をしなくてもいいのだ。はたまたビジネスや起業活動でなくてもよい。大きな環境活動でなくてもいいのだ。毎日の暮らしの中で、自恃(じじ:自分をたのみとすること)の精神を胸に行動するだけで、自分が生きているという実感が湧いてくるのではないだろうか。自分に与えられた人生の大切な時間が生かされているという感覚に見舞われるのではないのだろうか。

皆さんも、あなた流の塩作り、否、あなた流の自恃な暮らしはいかがですか?オッと話がかなり逸れてしまった。これはあくまで自転車雑誌のテクストだった。

最後に、自分で生産したモノには消費税が掛かりません。生産と消費は正反対です。10パーセントに増税されても心配無用です。自転車にガソリン税が掛からないのと同様に心配無用。(了)

【写真説明】川面に映える廣野家(富山県滑川市)。「アクアポケット」まではあとわずか。

■ 薪ストーブで焼くパン …by M2017/01/28

焼きたてのパン
今朝、薪ストーブでパンを焼きました。柳宗理の鉄鍋を用いて。

自家製パンでワインを飲むのが週末の楽しみです。2009年の2月にパンの種を知人に頂いてから、8年間、絶やすことなくほぼ週末に焼き続けています。

ピンポン球大の種に水を300cc、全粒粉を適当に加え、1日放置します。発酵に伴ってポコポコと泡が出ます。

その後、塩大さじ1を入れて、強力粉を手につかない硬さになるまで入れながらこねます。

次回のためにピンポン玉大の種をとり、蓋つきの容器にうつして、冷蔵庫へ。種を取った後の生地にレーズン100ccとクルミ100ccを加えて練りこみます。

形を整えてさらに放置し、倍くらいに膨らんだら焼きます。薪ストーブで片面30分づつで写真の通りとなりました。

家の柱や梁に住み着いた酵母で発酵します。面白いことに、最初にいただいた時の味が徐々に変わっていきました。酵母が変異し、我が家の味になったのではないかと思います。

ちなみに水と塩以外の材料は全て、みどり共同購入会でとりあつかっているものですので、安心して食することができます。

※ みどり共同購入会のウエブサイトはこちらです。
https://www.midori-toyama.com