One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 偽りのアランセーター …by T2017/02/10

偽りのアランセーター
立春を過ぎ、無事医者と薬のお世話にならず冬を越すことができました。30年以上インフルエンザの予防接種は一度も受けていません。その代わりここ数年は、予防接種に掛かる経費をお寿司代にしています。がんばってくれた身体の免疫力に感謝するとともに、美味しい鮮魚で栄養を摂取し、さらに免疫力を高めるのが私たち夫婦の風邪予防法です。

とは言うものの毎冬風邪気味で体調がすぐれない日はあります。そんな時、僕の身体は今がんばっている最中なんだとエールを送ります。僕の身体とは無数の細胞や微生物たちの云わば運命共同体であって、各員一層奮闘努力しているのです。そう思うと何か自分の身体が愛しくなります。僕ができることは栄養と休養を十分にとること、そして身体を保温してあげることです。

そんな時、26年前のクリスマスプレゼントとして義母から贈られたウールセーターが、ここぞと言わんばかりに登場します。セーターとはSweat(汗)→Sweater(セーター)だそうで、英国人は汗をかいて風邪を治すと聞いたことがあります。タグにはスコットランド製と書かれていますが、僕はこの赤いセーターをアランセーターだと偽って呼んでいます。

アラン諸島はアイルランド西部にある小さくて岩だらけの島々です。20年ほど前に一度訪れました。土が少なく決して豊かな地域とはいえませんでした。その時本物のアランセーターが売られていました。買おうと思えば本場で本物のアランセーターを買うことが可能でした。だけど僕は買いませんでした。その理由は単純です。この赤いセーターで僕は充分満足していたからです。でも一方で僕が一層奮闘努力すべき時、アラン島の風景を思い浮かべると何故か不屈の力が湧くような気もするのです。

というわけで、アランセーターを着たつもりで、毎年ウイルスとの戦いに一層奮闘努力しています。

■ サウナ風呂で気分はヴァイキング?! …by T2017/02/11

気分はバイキング?!
我が家のバスルームは、タタミ一畳のスペースに INAXの置き式バスタブを設置しただけの簡素なものです。追い焚きはできませんがお湯を溜めて浸かることは可能です。ホテルのバスルームのようですが、ビニールのカーテンは身体に触れると不快なので、我が家で唯一のアルミサッシュが取り付けてあります。

狭いスペースが幸いし真冬のシャワーのみでも室内がすぐに暖まります。脱衣場に電気温水器の本体が設置されているので、保温・除湿にも効果があるようです。床面と壁面はタイル張りで天井は杉板張りですが、築17年目で目立ったカビは見られません。これも狭くて簡素な空間ということで掃除も容易だからでしょう。

滅多にありませんが、ゆったりと湯に浸かりたいときは銭湯や温泉に行きます。内風呂に奢侈な設備投資する代わりに、超快適な外風呂を利用した方が良いと私たちは思いました。設備が壊れたりする心配がありません。最初から壊れる設備が存在しませんから。シャンプー類の容器が立ち並ぶのも嫌いです。あるのは身体用石鹸と洗髪用石鹸と身体洗い用タオル及びT型髭剃りです。これで私たちには十分です。高倉健さんのセリフを拝借すれば「俺には、(ちょっと間を置いて)・・勿体ないです。」

そんな謙虚なフリをしている僕は、贅沢にもサウナを必要とします。雪国の冬場は発汗量が少なく新陳代謝が不活発です。加齢とともにさらに代謝が衰えつつあります。ランニングしてもカロリーは消費されますが発汗は望めません。そこでサウナです。でも我が家にサウナルームを設置する気は全くありません。ではどうしているか?

僕は脱衣場に自転車用ローラー台を置いています。競輪選手が練習に使用する3本ローラー台です。その台で約1時間自転車のペダルを回します。BGMにはレド・ゼペリンの『移民の歌』が最適です。1時間後、Tシャツとバンダナを絞ればしたたり落ちるくらい汗をかきます。その後シャワーを浴びてから血のようなトマトジュースを飲めば、気分はヴァイキングです。

■ 家のつくりやうは、冬をむねとすべし!? …by M2017/02/12

家のつくりやうは、冬をむねとすべし!?
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる」
ご存知の通り、吉田兼好の「徒然草」の一節です。

が、朝起きてびっくり!20cmあまりの積雪が一晩でありました。雪かきを終え、久々に「冬」を旨として家を作ってよかったと思えました。

私たちが家を建てる時に考えたのは次のようなことでした。

1 屋根の雪下ろしが不要な家
世界的にも豪雪地帯である新潟県の上越・中越地方の山間地では、トタン屋根が主流です。10年ほど前までは毎冬、上越妙高高原池の平温泉にスキーに行っていましたが、途中見る民家はトタン屋根で真冬でも屋根に雪はありませんでした。

一方、私たちが住む地域は瓦屋根が主流で、数年に1回訪れる豪雪の時は雪下ろしが必要になります。また、雪の重みに耐えるため太い柱を用いる必要がありました。

そこで私たちは、ステンレスの屋根にし、雪下ろしもメンテナンスも不要の家としました。


2 屋根から落ちた雪が邪魔にならない家
富山の豪雪地帯で世界文化遺産になっている五箇山地方では、家の周囲に湧き水を流し、雪が積もらないようになっています。屋根から雪が落ちると雪の壁ができ、屋内が暗くなりますし、雪の圧で窓ガラスを割ることもあります。

そこで私たちは基礎の高い家をつくりました。実際、新潟県の上越・中越地方では1階部分はコンクリート基礎のようにし、玄関が2階にある家を見かけました。

出会った土地が道路よりも低かったことも功を奏しました。屋根から落ちる雪も、車庫前を除雪した雪も、道路から玄関へのアプローチの雪も庭に落とすだけ。基礎が高いために邪魔にならないのです。

道路よりも低いという条件の土地に、購入前は随分と悩みましたし、購入後も時々後悔するエピソードが生じたりしましたが、今はこの選択に後悔はありません。

今日は久しぶりに雪景色を楽しみながら過ごすことになりそうです。


なお、私たちの家づくりにご興味がある方は、こちらの記事はこちらもご覧いただけると嬉しいです。
http://onesway.asablo.jp/blog/2016/12/31/8297917

■ アマテラス …by T2017/02/12

日差しを浴びる榊の開花
立春から建国記念の日にかけての時期、正午過ぎになると十数分間だけですが、我が家の神棚には直射日光が射し込みます。家の妻部分に設置されたガラス窓から差し込むのです。

意図的に家の設計をしたわけではなく、偶然の所産です。太陽高度に関係するので、11月初旬立冬直前の時期にも射し込みますが、2月のこの頃は雪雲に覆われることが多いので、まさに一期一会のタイミング。今年は屋敷の雑木林から採ってきた榊が室内の暖かさでもって開花し、そこにお天道様が柔らかな日の光を与えていました。

日ノ本ノクニの首相が、建国を祝う記念の日に、日の出の10時間以上遅い国に挨拶を兼ねたゴルフに行くことって、これも偶然の所産でしょうか。

■ フリーダム・トレイル(イントロダクション)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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THE FREEDOM TRAIL BOSTON

イントロダクション

この冊子は、僕たち夫婦が、2004年8月6日から16日にかけて、アメリカ・マサチューセッツ州コンコード及びボストンを旅行した、その体験と思索の記録である。現在は、当然と言うべきか、幸運と言うべきか、僕たちは富山に戻って暮らしている。

何故、この冊子を創ったかというと、僕たちが今回撮ってきた一眼レフ写真の数々について、それを身近な人に紹介する際、口頭で説明するのがとても困難だと思ったからだ。この冊子に印刷された写真は、僕たちが撮ってきた写真の全てではない。しかしこの冊子を読んでいただいたのち、アルバムをみていただけば、アルバムに載せた簡単な説明のみで、それ以外の写真を味わっていたがくことができると思う。


表紙の写真の説明をすると、このマンホールの蓋みたいなものには、THE FREEDOM TRAIL BOSTONと書いてある。これは、ボストン市内散策モデル・ルートでありフリーダム・トレイル(訳すと、「自由」への軌跡)の目印である。市内の道路に赤い線が引かれていて、そこを辿っていけばモデル・コースを回ることができる仕組みだ。

この冊子のタイトルを付ける際に、この言葉とデザインを使わせてもらった。「自由」と聞けば、ちょっと退いてしまうかもしれない。そこで僕たちは、抽象を実感するには、メタファー(比喩、暗喩)が適した手段であろうと思った。そのメタファーのいくつかを、文章及び写真でちりばめてみたつもりである。「自由」という言葉を、アメリカ独立の「自由」への道といった狭義の意味としてだけでなく、各人各様、「自由」という言葉の意味を、広く遠く味わっていただけたらと思う。


この冊子を創るに当たって、使用した愛すべき機材を紹介する。彼らの尽力に対し、敬意を表したい。

カメラ:キャノン EOS Kiss35mm一眼レフレックスAF・AEカメラ
P.C.:妻自作
プリンター:ヒューレット・パッカード PSC1359 All-in-One

なお、ボストン近郊に在住のH.J.氏がいなかったら、この旅は実現しなかったであろう。意味ある偶然の一致に対し、心より感謝したい。Special Thanks !

2004.9.15

■ フリーダム・トレイル(その1:旅の予感)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードへ行きました。帰国後、旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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旅の予感

僕たちが、遠くボストン郊外の小さな町、コンコードを訪れるきっかけとなったのは、知人が1年間、ボストン近くで働きながら勉強することになったことである。彼女に、「アメリカ東海岸へどうぞ」と誘われなかったら、約14時間も飛行機に乗っての旅行などしなかっただろう。僕たちは旅行が好き、とはいうものの、僕たちの趣向性から見た目的地優先順位からすれば、アメリカ合衆国はどうしても後まわしにしてしまう国であった。

しかし、相手が、たとえ社交辞令として「遊びに来て下さい」と言って下さったとしても、その一言には、必ず応えようとするのが、僕たちの対人関係におけるスタンスである。後で「あんなこと言わなきゃよかった」と後悔するホストもいるかもしれない。その後悔を杞憂のものとしてあげるためにも、僕たちは、旅行チケットの手配やホテルの予約、あるいは観光ツアーのガイド役等々をホスト方に全面依存することが、決してないよう心がけている。ただし、提供してもらったアドバイスや好意は、ありがたくいただく。

今回の場合、その知人がアメリカのどこかでワーキング・ホリディをすると聞いた時、内心「ニューイングランド(注)であって欲しい」と僕らが願ったことは、正直言って否定できない。誘われる前から願うなんて、とても図々しい限りである。それだけ、もし仮に、ニューイングランドへ行く機会に思いがけずにも恵まれたならば、その機会を運命的なものとして捉え、どうしても行きたい場所があった。それは、コンコードの町のウォールデン池である。

そこは、19世紀に、文学者であり、自然観察者であり、測量技術者であり、菜園家であり、フルート奏者であり、DIY愛好家であり、社会運動家であり、哲学者であり、そして、生涯フリーターを貫いた、自分に嘘のつけない一徹な男が暮らしたところだった。名を、Henry Devid Thoreau(ヘンリー・ディヴィド・ソロー)という。ソローを多くの日本人は、ソローと呼ぶが、ソロウが正しい。まあそんな堅いことはどうでもいい。孤高のソロー(Solo)と覚えておこうか。

僕は、高校生に歴史を教えていたにもかかわらず、アメリカ独立戦争における第一発目の銃声が、まさにコンコードで鳴り響いたと知ったのは、今から約一ヶ月前のことであった(現在僕は39歳)。コンコードの町がソローの故郷であったことを20代のの時から知っていたにもかかわらずである。本来ネイティブ・アメリカンの土地であったアメリカ大陸に、余所からやって来たヨーロッパ人が、何が独立だ、何が建国なのだ。社会史的観点から捉えたアメリカ独立戦争の灰色がかった自由への道に比べれば、ソローが全生命をかけて試みた、一人の人間としての自由、自分で自分を縛り付けている現実からの解放が、若かりし頃から僕にとって、とても重要なのであった。

ソローは、決して多くの書物を著しているとは言えない。しかしその書物は、彼の確固とした直接体験に基づく真実の書物であるようだ(僕は全部読んでいない)。その中でも、時代を経て世界中で愛読されている『ウォールデン-森の生活』(Walden Or Life In The Woods. By Henry David Thoreau 1854)が、既に古典の殿堂入りを果たし、押しも押されもせぬ地位を確立しているといえよう。この書物は、ソローが28歳から30歳にかけての2年2ヶ月と2日間、コンコードの中心から約2マイル(約3キロ)離れたウォールデン池畔に、28ドル12.5セントの費用で(当時ソローの通ったハーヴァード大学の学生用部屋代が年間約30ドル)、自分の手で小さな家を建て、生きることに真っ正面から取り組んだ記録と思索の書物である。

信州の薪焚き人である田渕義雄氏は、「『ウォールデン-森の生活』は、最初から最後まで読破するといった類の書物ではない。まるで聖書のように、当てもなく開いたページの、どこから読んでも何か得られるものがある。」と述べている。僕も同感である。読破するのに途中で挫折という概念が存在しない書物である。軽薄な癒しではなく、包み込むような赦しの文学だ。また、造詣の深さに関する上下の序列はない。共感したり、示唆を与えられたりする文章の一節が、人それぞれ千差万別だからだ。

ウォールデンを訪れることによって、ソローヴィアンとして誰かから正式に洗礼を受けるわけではないし、ワン・ランク上のソローヴィアンに昇進するわけでも決してない。だがもし、ニューイングランドという、人間の思想史的観点での重要な意味を持つ地域を、僕たちが訪れる機会に恵まれたとしよう。その時、僕たちにとって、ウォールデンは、大衆向け旅行ガイド的に「ぜひ行ってみるべき」名所旧跡というより、巷の知名度などとは無縁の、極めて個人的に、どうしても「行かずにはいられない」重要な場所であったのだ。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー39歳のポートレイト
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー39歳のポートレート

(注)ニューイングランド:アメリカ合衆国北東6州(コネチカット、ロードアイランド、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、バーモント、メインの6州)の総称。この6州は、ヨーロッパ移民による最初のアメリカ独立州国。いわゆる最も初期のアメリカ合衆国



■ フリーダム・トレイル(その2:ワシントン・ダラス空港のユナイテッド飛行機)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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ワシントン・ダラス空港のユナイテッド飛行機

ワシントン・ダラス空港のユナイテッド飛行機

搭乗ゲートのわずかに覗く窓から、ドブ鼠のような、グレーカラーのポッチャリしたユナイテッド・エアライン航空機を、何とか垣間見ることができた。これから自分の全生命を預ける機体に触れることはできなくても、せめてアイ・メッセージぐらいは送ってやりたいと、飛行機搭乗前いつも僕は思う。

おそらく現在、世界で最もセキュリティが厳しい空港の1つであろう、ワシントン・ダラス空港は、不必要なものが一切除かれ、リノリュームの床は鏡のように磨き上げられて、ビジネスマンの靴の裏や鞄の底に貼られているかもしれない不審物まで見逃さないかのように映えて見えた。

僕は以前観たある中国映画を思い出した。それは、かつて中国大陸を史上初めて統一した秦の始皇帝が、自分を狙う刺客の潜む場所がないよう、謁見の間の装飾品を一切排したという設定のものだった。仮想が新たな仮想を生み、それに比例して現実感は薄れ、人間の行動が膠着化し、現実離れしていく。そして見れども見えず、視力さえもやがて消滅するのではないだろうか。若しくはその反対に、あり得ないものが見えてくるのか。まるで裸の王様の実在しない衣服のように。これがかつて自由を旗印にして独立戦争を闘ったアメリカ合衆国の有り様か。そもそも闘争によって自由が獲得されるという精神そのものが仮想現実なのか。

現在のところ、空港の視界がかなり狭まったようだが、隙間から見えるアメリカ産の肥満体マウスは、実在しないネズミ取りを恐れて動けないのであろうか。それとも既にネズミ取りに捕まって、身動きが取れないのであろうか。そこまで僕には見通すことができなかった。



■ フリーダム・トレイル(その3:シヴォレ・レンタカー)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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シヴォレ・レンタカー

幌馬車を突っ走らせ、天然の鉱物を略奪、運搬し、そして同じく天然のネイティブ・アメリカンを隅に追いやっていったアメリカの自由(?)への軌跡は、現在もアメリカ車社会に脈々と受け継がれているように僕は感じる。アメリカの旅は車がないとかなり不便である。車を運転できない、あるいは車を所有できない交通弱者には厳しい試練を科す。私たちのような異国からの旅行者も、紛れもない交通弱者であり、しかたなくシヴォレのセダンを借りることにした。

しかし一旦車社会の仲間入りをすれば、同じ穴のムジナということでアメリカは温かく迎えてくれる。片道5車線のハイウェーでも車線変更はしやすいし、のんびり走りたい人と飛ばしたい人が葛藤することがあまりない。車を所有し運転できる水準に達していれば、いや、運転できる水準に達して初めて、個人として尊重される。まさに車の免許証が名実共にIDカードなのだ。だからなのか、アメリカ女性は男性に劣らず運転がうまいと僕は思う(ちなみに僕の妻も、日本産だが運転はうまい。これは本当です)。

歴史的にはニューカマーであったはずなのに、現在マジョリティーを名乗っているアングロ・アメリカンにとって、馬車の歴史はかなり古い。少なくとも古代ローマ時代までは遡ることができるであろう。だから車と人間との関係は、遺伝子レベルで親密であるのかもしれない。その証拠かもしれないが、欧米では屋根無しのコンバーティブルが多い。

ところが日本人はどうであろうか。日本人の歴史には馬車の歴史は存在しない(横浜の馬車道はかなり例外)。一人乗馬の歴史から明治になって突然一足飛びに、自動車文化が移植された。だからまだ車というものが日本人自我の無意識のレベルまでは根付いていないのではないかと僕は思う。意識できるレベルでは車を運転できても、無意識のレベルでは「乗りこなせていない」のではないかと思う。

交通弱者に厳しい自立独尊を要求するアメリカ社会であっても、道を横断する歩行者がいたら、横断歩道でなくても止まってくれ、渡るように手サインしてくれる。これは本当である。車を運転していてもしていなくても、その人間は自己一致している。表と裏が感じられない。

一方日本人は(全てとは言わないが)車を運転したら人が変わる、というか、本当の自分が現れる。横断歩道ではまず止まらないだろう。車線変更も申し訳なく入れてもらう雰囲気がある。遅い車がいたら煽るドライバーもいる。日本人全体に般化して述べることはできないが、自我の深いエス(本能のようなもの)の部分がムクムクと顔を出してくるような気がする。それでいて車を降りて、傍目を意識する歩行者になれば、信号のある交差点では、100パーセント車が来なくても、お行儀よくみんなで青になるのを待っている。同じ人間なのかと思う。アメリカではどんどん自己責任で信号無視していく。ドライバーもそんな歩行者に注意し、道を譲る。緊張感があってとても安全だ。あくまで例外もあるが。


シヴォレ・レンタカー




■ フリーダム・トレイル(その4:ホテル・コロニアル・イン)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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ホテル・コロニアル・イン

コンコードにある創業1716年のホテル、コロニアル・インは、アーリーアメリカン調の下見張り壁板、及び上下違い戸の窓枠全てが、木製のペンキ塗りである。このホテルの謳い文句が、「我が家の次に快適なところ」であった。古い建物を生かしつつ、建て増しと補修を繰り返しながら、現在もコンコードの目抜き通りで現役第一線である。ペンキを塗り直し続ければ、木造でも軽く300年は持つであろうという証拠だ。

ニューイングランドは、日本のモンスーン気候ほど高温多湿ではないが、夏は蒸し暑い方だ。要は丁寧にしっかりと建てることと、メンテナンスし続けることであろう。たとえ木造建築に適した地中海性気候だとしても、ウエスト・コーストのペラペラした家は、ハウスであってもスウィート・ホームとは僕には思えない。(旅行の最中、ハリケーン・チャーリーがやって来て、フロリダのペラペラした家を本当に吹っ飛ばしていたのが、テレビに映っていた。)

創業1716年のホテル、コロニアル・イン

-家は港と外界の境目、舌状に細く突き出た岬の天辺にあった。三度のハリケーンに堪え、船のように堅牢な家であった。・・・何物も生き残れないほどひどいハリケーンがあることも知っている。だが、そんなひどいハリケーンが来、家が飛ぶようなことがあれば、待っていて、家と運命を共にしたいもの、といつも思うのだった。-
E.ヘミングウェイ  『海流の中の島々』より


コロニアル・インのオープンカフェでのひととき
コロニアル・イン オープンカフェでのひととき

■ フリーダム・トレイル(その5:ソロー・ハウス)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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ソロー・ハウス(レプリカ)

-私の家は完成しました。幅が10フィート(約3メートル)、長さが15フィート(約4.6メートル)、柱の高さは8フィート(2.4メートル)で、外壁は、水を漏らさないしっかりしたこけら板張り、内壁は漆喰塗りです。屋根裏部屋と備え付けの戸棚があります。両側面にそれぞれ大きなガラス窓があり、はね上げ式の板戸がふたつあります。正面に出入り口の戸があり、奥にはレンガ造りの暖炉があります。-
ヘンリー・デヴィット・ソロー
『ウォールデン-森の生活』 第1章  経済


ソロー・ハウス(レプリカ)
このレプリカは、実際ソローが暮らした場所から少し離れたところに再現されていた。

1845年の7月4日、まさにアメリカの独立記念日に合致させるかのように、ソローはウォールデン池畔での実験生活を始めた。しかし実験生活は、家の完成をみてから開始されたわけではない。この時、漆喰壁はまだ塗られておらず、大事な暖炉も完成していなかった。ソローはこれらの家作りを、池畔に暮らしながら進めたのである。1年目の11月に、暖炉は完成した。

-暖炉を持って初めて私にも、自分の家に住む実感が湧きました。人は家に安全を求めるだけでなく、暖も求めるようになってこそ、本当に住んだといえます。-
  『ウォールデンー森の生活』 第13章 新築祝い

2年目になって、ソローは、小さな料理用ストーブを家に導入したと、『ウォールデン-森の生活』に書いている。ウォールデン池畔に建てられた、ソロー・ハウスのレプリカでは、暖炉の煙突内を通すように、鋳鉄製の薪ストーブ用煙突を立ち上げ、暖炉の炉床の前に、薪ストーブ本体が設置されていた。薪ストーブを導入した理由として、「薪を節約したかったから」と、ソローは述べている。結果的には、この新しい試みは、「輝く炎が、炉辺と居間から消える」こととなり(それは、薪ストーブだと炎が見えないし、料理などに火をうまく利用できないという意味)、ソローは嘆いている。

僕らは、4年前に自分たちの家を所有した。新築の際、ソローの哲学から受けた影響はとても大きい。「台所、居間、客間をすべて兼用させ」るように、出来る限り小さく、隠し隔てせず、簡素な家を目指した。そして、家に住みながら作り続け、ゆっくりゆっくり建てた(現在進行形)。専門職人のアドバイスと技能は尊重し、しかし自分たちでできるところは出来る限り行った。哲学と実生活が乖離しないように心がけ、頭で学習することは、身体で体験することと同義であることを証明しようと努めた。

そして、メイン・イベントは、薪ストーブの導入である。僕たちは、薪の効率的な燃焼という点と、耐熱ガラス越しに炎を観察することのできる点を考え、フリー・スタンディング暖炉という種類の、鋳鉄製薪ストーブを選択した。大変満足している。僕らの家からは、眼下の小川越しに、縄文中期の水上谷遺跡を望むことができる。大昔も今も、人間は「炎を尊い仲間として」暮らしているのだ。

-文明人とは、経験を積んだ未開人である。-
『ウォールデン-森の生活』

レプリカ内部の薪ストーブ
レプリカ内部の薪ストーブ