One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その4:政の砦と聖の道)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★政の砦と聖の道
瓜裂清水から数キロ西に向かうと、名刹「瑞泉寺」がある。今から600年以上も前の室町南北朝時代。比叡山延暦寺など旧仏教の圧力を逃れ、北陸の地に念仏を布教していた綽如上人は、後小松天皇の要請を受け上京する。それは中国明王朝との外交文書の解読及び返書作成の為であった。当時のエリート延暦寺僧でも解読できなかった漢文を綽如上人が翻訳し、日本は面目を保つことができた。天皇はいたくお喜びされ、綽如に「領地でも何でも与えるぞ。」とおっしゃった。綽如は「私は仏門に仕える僧です。領地などめっそうもありません。もし願いを申し上げるならば、北陸の地で念仏の教えを広める許可をいただきたい」と申されたそうである。天皇は「それはたやすいこと」と、瑞泉寺を建立する許可を綽如に下されたとのことである。


瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院
[瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院。一向一揆といった政治権力の一大拠点であった。]

瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院。一向一揆といった政治権力の一大拠点。現在は本堂の銅葺き屋根の修復中であった。新しい屋根はガルバリウム鋼板葺きになるそうである。


臼浪水(きゅうろうすい)と桜
[臼浪水(きゅうろうすい)」と桜。臼浪水は瑞泉寺発祥の地。原点の水は今も湧き出ている]

現在の瑞泉寺は度重なる戦禍や火災によって場所を少しずつ移動させてきた。お寺のほど近くに「臼浪水(きゅうろうすい)」と呼ばれる湧水がある。そこが瑞泉寺発祥の地である。綽如上人の勧進状(寺の建立のために寄付を募るための書状)に、「この地に霊水あり。故に瑞泉寺と称す。」とあるそうだ。そういえば瑞泉寺のある井波町(現南砺市)の名称も「水」にちなんでいた。


綽如上人墓
[綽如上人墓]

瑞泉寺の南方山麓を上って行くと、綽如上人の墓とその墓を守ってきたお寺「大谷支院」があっ
た。先述した後小松天皇と綽如上人とのやり取りや浄土真宗の北陸布教の話は、大谷支院の住職にお茶をいただきながら伺ったものだ。綽如上人のお墓は杉木立の中にあった。墓の上部には川原石が置かれていた。川の水も人間も何処に流れていくのだろうか。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は生前、「自身の墓は要らぬ」と語っていた。五代目法主綽如は自身の墓についてどう考えていたか、僕は知らない。そもそも墓というものは、後世の人々の、手を合わせずに入られない心の拠り所なのだろう。

綽如上人の墓前には、「道宗道(どうしゅうみち)」の道標があった。室町時代、浄土真宗に厚く帰依した山人がいた。名を「赤尾の道宗」という。彼は山奥五箇山に道場を開き、身を修めた。月に一度は山の尾根づたいに瑞泉寺まで参ったという。その道宗道が地元の人々によって復旧されつつある。道宗道は、加賀国を目指す一向一揆の真宗古道とは一線を画した、政治色を払拭し静かで思索的な道のようだった。

綽如上人墓からさらに山麓を上って行くと、見晴らしの良い「閑乗寺公園」にたどり着く。公園からは、絶えることのない「庄川」によって造られた扇状地に広がる散居村が一望できる。縦横無尽に流れる用水路のおかげで、井波の地には稲作文化が発展継承されてきた。庄川の治水も進歩し、人々は水田近くに住まいすることができるようになった。高台に身を寄せ合って生きていた人々は、広い平野部に降りていった。そして屋敷の周りにはスギやケヤキなどを植栽し「カイニョ」と呼ばれる屋敷林を育てた。人間の営みもまた自然の営みの一部である。人間という名の大自然である。自然と人間、聖と俗、表と裏、陰と陽、そして天と地。世界はいとも簡単に二分・二極化できるものではないと思う。雲ひとつない快晴の日でも霞みかかった世界。僕はそんな富山の風景が大好きだ。



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