One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ STONE FREE-口絵-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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New Cycling2103_10
如意の渡し船着場跡
如意の渡し舟は2009年に廃止され、今は義経と弁慶の像だけが船着場跡に残されている

義経雨晴らしの岩
義経雨晴らしの岩。左側は女岩、右側はJR氷見線

氷見漁港とブリ小僧
氷見漁港とブリ小僧

石動山の山頂
石動山の山頂。このあたりを大御前(おおごぜん)と呼び、周囲は原生林に覆われている

能登歴史公園
石動山は現在、能登歴史公園として少しずつ整備されている

■ STONE FREE-その1:昭和浪漫-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆昭和浪漫

石動山へ入る
かつての修験の場、石動山へ入る


1980年10月22日水曜日。この日、富山県の地元紙で県内最高の発行部数を誇る北日本新聞朝刊には、巨人軍の長嶋茂雄監督が辞任した記事が大きく取り上げられていた。でも当時中学三年生だった僕は、長嶋さんのトップ記事ではなく、富山県地方版のページに載っていた、ある記事を何度も読み耽っていた。

人それぞれ人生の転機という経験があるだろう。長嶋さんとの出会いによってその後の人生が変わったという人も大勢いるはずだ。僕の場合、地方新聞の地方版に書かれた一つの記事によって人生の転機を迎えた。

「やったぜ「全国一周」自転車で三ヶ月の旅」』

見出しの下の写真には、マラソンの宗茂選手に似たお兄さんが、荷物を積んだ自転車にまたがっていた。宗猛選手でもいいんだけど、何故か僕には宗茂選手に思えた。茂と猛、決定的な違いを述べよと言われても答えられないんだけど。・・若かりし頃の伊勢正三の様でもあったが、その写真のお兄さんはTシャツにランニングパンツを身に着け、ランニングシューズを履いていたので、やっぱりマラソンの宗茂選手だ。

そんなことはどうでもいい。でもどうでもいいことを書いているようだが、それだけ食い入るように記事を読み耽っていたことを伝えたいのだ。

自転車で日本一周する為にかかった「総費用は25万円」。三ヶ月の旅で25万円。25万円で日本隅々。そうか、自転車は安く旅ができるのか。低予算で、質の高い人生経験。ともあれ何の検証もなく勝手に「自転車はコストパフォーマンスに優れている」という意識が僕の中にすっかり出来上がった。

記事には「北海道で橋が流失。迂回路を50キロも走って体力を消耗した。」とも書いてあった。その頃よく耳にした山口百恵の歌う「いい日旅立ち」が突然僕の頭の中で流れ出した。当時の僕にとって未知の世界だった北海道は、「いい日旅立ち」が流れる世界だったのだ。この日の約1週間前に山口百恵が引退した記憶が後押ししたのかもしれない。そういえば、僕が始めて買ったドーナツ版レコードが山口百恵の「いい日旅立ち」だった。

僕は1965年生まれ。この年、ベトナム戦争でアメリカ軍が北爆を開始した。世界最強を誇る大国アメリカに対し、アジアの同胞ベトナムは一歩も退かなかった。1969年、ニューヨーク州ウッドストック・フェスティバル最終日の明け方、ジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌を演奏した時、僕は若干4歳だった。

よってリアルなカウンターカルチャーなんて知る由もない。日本の高度経済成長もとっくに終わり、学生運動の嵐も昔話になっていた1980年の当時、僕はようやく中学三年生で、両親に反抗するくらいがやっとの体たらくだった。

ジャック・ケルアックやリチャード・ブローティガン等々、ビートニクな活字をライブ感の無いファッションとして、後世味わうに過ぎなかった。当時の僕は、極力レールから脱線しないように、大人の敷いてくれた明確な轍、そんな『オン・ザ・ロード』を、安全神話の中で歩んでいた。そんな矢先に飛び込んできた地方新聞の活字とモノクロ写真。でもその活字世界はヒッピーでジプシーな匂いと開放感を伴い、大人が敷いてくれた道とは別世界の、もう一つの『オン・ザ・ロード』を教えてくれているようだった。何となく土の香りがした。

正直言って当時、受験生だった僕は閉塞感に苛まれていたのだと思う。そんな窒息しかけた僕に、ささやかではあったがつむじ風が吹いたように感じられた。でもそれはささやかで一時の風にすぎなかった。事実、新聞の宗茂選手に似たお兄さんは、僕に満面の笑みを見せてはいなかった。時既にロックが死んでしまっていることを諭すように、そしてこう囁きかけているようだった。

「何事も深入りするなよ。ある意味、生きるのがつらくなるぜ。」

1980年という日本社会は、ちっぽけで軟弱な受験生の僕にとって如何ともしがたいのも事実だった。そしてその年の12月、海の向こうでジョン・レノンが射殺された。

「長嶋茂雄が監督を辞任しても、巨人軍は永遠に不滅です。激動の昭和よ、さようなら。ラヴ・アンド・ピースよ、永遠に



■ STONE FREE-その2:ヘイセイ・リアリズム-2017/09/23


今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。
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◆ヘイセイ・リアリズム

あの新聞記事から約30年の歳月が流れた。僕は依然としてバイクに乗り続けている。バイクで走った道のりを積算すれば、あの宗茂選手に似たお兄さんが日本一周で走った距離を優に越えているだろう。でも僕のバイクライフは、日本一周や世界一周に旅立つような、男の浪漫に満ち溢れたカッコ良いものでもない。

ところで、この国では通常「バイク」といえばモーターバイクのことと認識される。「省略、短縮しろよ。そうすればマジョリティの仲間入りを許可してやるぜ。」といった感じだ。同様に最近は、メール(=郵便)といえばEメールのことと成りつつある。「ショートカットしろよ。その方が楽チンで時間も節約できるじゃないか。」ナルホド、それもそうだ。ガソリンや電気で動くことを当たり前と認識すること、人力以外の動力源に頼ることが当然であるくらいに無意識化すること、そんな凶暴・肥大化した自我を受容すればいいじゃないか。何故、ちっぽけなバイク(=自転車)に乗り続けているのか?冒険家として名を馳せる訳でもないのに…。

結局のところ僕は、その意味を探し続けながら乗り続けているのかも知れない。逆に何故、時間を節約しなければならないのか?と問われても、それはそれで答えられないんだけど…。

僕にとってバイクはある意味、依存症みたいなものだ。全然カッコ良くないよね。強迫的でバイクに乗ることができなかったら不快でイライラしてくる。そして走れば走るほど強迫性が増す。だからバイクに乗る自分を正当化するために、僕はその意味を、こじつけでも屁理屈でもいいから探し求めているのかもしれない。

バイクに乗ることが生きることの必要条件ではないことは十重承知している。お金も時間も労力もかかる。中学三年生のときに決め付けた「自転車はコストパフォーマンスに優れている」という先入観は、今では??である。競輪選手のように、バイクに乗ることがプロフェッショナルな職業でもない限り、生活の糧にはならない。

「ショートカットしろよ。その方が楽チンで時間も節約できるじゃないか。」そんな囁きに、僕は反論することができない。

でも一方でこう言えるのも事実だ。僕はバイクに乗ることができている時、生きることがとても鮮やかに見え、満たされた感覚に襲われる。と同時に気分がピシッと引き締まり、日常の細部が意識的になり、時間の感覚がクリアになる。つまりこういうことだ。

「毎日を丁寧に暮らすことができるようになる。たとえ現実というものに夢や希望が消え失せていると仮定したとしても。」

バイクに乗れている限り、僕は何とかボチボチやっていけるような気がする。依存症のように深みにはまっていく感覚は否定できない。しかし大事な一線を越え、落ちに落ちていくことだけは回避できるような、そんな直感的な手応えがバイクにはある。そんな意味で僕にとってバイクは『ライ麦畑でつかまえて』くれる存在なのかもしれない。ちょっと大げさかな?かなり大げさだ。


僕のバイクライフは、あの宗茂選手に似たお兄さんのように、バイクに荷物を一杯積んで、遠い世界を旅するツーリングスタイルではない。生活の拠点である家族と我が家を中心としたサイクリングライフである。

僕は就職し、結婚し、小さな家を構え、紆余曲折はあったものの、ボチボチ日常を生きてきて、現在もボチボチ現実を生きている。僕はバイクで世界一周を目指すことはないだろうし、ヨーロッパにレース修行に行くつもりも能力もない。庭や菜園の世話、サラリーを得る仕事、そして何よりも家族との時間を大切にすること。そのような日常の暮らしの合間にバイクを日課として溶け込ませること。

僕の選択した道とは、現実の日常に徹する道だったのかもしれない。言い換えれば日常そのものに楽しみを見出そうという道を選んだとも言えるだろう。30年前の新聞記事は確かに僕の人生の大きな転機と成り得た。旅する自転車の非日常的人生ではないにしても、自転車のある日常的暮らしの出発点に、あの記事が成りえたことだけは確かだ。


■ STONE FREE-その3:石が、そして山が動く-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。
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◆石が、そして山が動く
僕が好んで走るサイクリングコースの一つに、里山の我が家をスタートして北上、富山湾を目指し、寒ブリで有名な氷見漁港から石川県境を越え、石動山(せきどうさん)に上るコースがある。往復で約100キロメートルのコースだ。

2013年5月8日、僕の住んでいる富山県は130歳の誕生日を迎えた。明治16年の同日、隣の石川県から独立した。石川県といえばかつて加賀百万石と呼ばれた地域。いわば大国である。そこから自治を獲得したのだ。

富山の地は海抜ゼロメートルの浜辺から3000メートル級の山岳地帯まで、さほど大きくない面積の中にコンパクトに納まっている。また世界的にも稀な豪雪地帯である。一年を通じて雪解け水の流れる一級河川は、急流となり、河川の数も多い。治水整備を急務とする富山側の人々は石川県からの独立運動を起し、遂に実現したのだ。最近は市町村合併や道州制導入など、長い物に巻かれるのが流行りのようだけど…。僕は我が富山県の誕生日を迎え、明治維新といった近代国家建設期の人々が抱いていた独立自尊の気概に対し、敬意の念を新たにした。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

時代を古代にさかのぼってみよう。超大国である中国の属州であり、中国側から「倭(わ)」と呼ばれていた列島の人々が、自らの国名を「日本」と宣言し、法に基づく国家形成を始めたのは7世紀から8世紀にかけての時代である。倭とは、「野蛮な」といった意味である。我々の先祖は野蛮で未開な民族から、堂々とお天道様を拝むことができる「日ノ本」民族になることを目指したのである。小さくても堂々毅然と世界に立ち向かうこと。この頃、わが国ははじめて自我に目覚めたと言えよう。

そして越中国(現富山県)にも国府が設置された。設置された場所は現在の富山県高岡市伏木。この辺りからサイクリングはアップを終え、本腰が入ってくる。万葉集の編者でも有名な大伴家持は、ここに国司として5年間赴任した。

彼は衰運に向かいつつあった名門大伴家の首長として苦難を一身に背負わねばならなかった。都を落ちて僻地の越中国に赴任させられた。国府があったとされる場所には、現在石碑が建てられている。そこは現在の浄土真宗勝興寺境内である。現在、勝興寺は修復中で写真をお見せできないのが残念。


如意の渡し船着場跡
「如意の渡し(にょいのわたし)」船着場跡

時代が中世に入る。国府跡の近くに、「如意の渡し(にょいのわたし)」があった。僕はそこに寄り道する。「如意の渡し」とは、小矢部川を対岸に渡るための渡し舟のこと。歴史は古く『義経記』に登場する。能の演目『安宅』で弁慶が主君義経を叩き、一行の危機を救った場面は、この「如意の渡し」に乗船する時のエピソードを基に創作されている。源義経にしても大伴家持と同様、中央政争に翻弄され、都を落ちていった英雄である。如意の渡しは、2009年に廃舟になった。小矢部川に近代的な橋が架かったためだ。

雨晴海岸
雨晴海岸

義経雨晴らしの岩
義経岩

ルートはここから海岸線に入る。日本海が広がる。「義経岩」辺りは、運が良ければ富山湾越しに立山連峰が見えるという絶好のスポットだ。海岸線のすぐ側をローカルなディーゼル機動のJR氷見線がゆっくりと走る。奇岩「義経岩」は、先述「如意の渡し」も含め、源義経が兄源頼朝に追われ、奥州平泉へ逃亡した歴史的事実に関連した伝説である。

実際、義経が通った逃亡ルートは正確には分かっていない。何処何処に義経が到着したなどといった公式の記録がないためである。記録など残っていれば、義経はとっくに捕まっていたであろう。この国の野に生きる無名の人々が、沈黙という行為で義経逃亡を助けた。大きな中央権力に抵抗して。記録が残されていないことがその確たる歴史的証拠である。そして伝説だけが残された。

「義経岩」伝説とは、この地を義経一行が通った時、にわか雨に遭い、この岩の穴の中で雨宿りしたというもの。すると雨が止んだという逸話をもつ巨岩である。「義経雨晴らしの岩」と呼ばれたことから、この地域に「雨晴(あまはらし)」という地名が付けられた。サイクリストにとって何と有り難い地名であるか。

義経一行は、能『安宅』の演出に見られるように修験道山伏の一団に擬して奥州平泉を目指した。それはかの武蔵坊弁慶のモデルとなった俊章という名の悪僧が比叡山無動寺の修験者であったことに由来するのか。はたまた旅そのものが修験の道なのか。TRAVELの本来の意味は「骨折って働く、苦労して旅をする」という意味だそうだ。旅も人生もサイクリングも修行なのかもしれない。

義経一行が北陸ルートを選択して奥州平泉を目指したという説の大きな根拠として、延暦寺と北陸の関係がある。霊山白山(石川県)における山岳修験は山門延暦寺の影響下にあり多くの僧兵を抱えていた。義経逃亡を手助けした実在の修験僧俊章が白山信仰の庇護の下、義経を奥州平泉に導いたであろうことは推察しやすい。また能登半島には白山とは別の大きな修験の場が存在した。それが石動山(石川県鹿島町)である。

石動山への上り途中
石動山への上り途中、先ほど走ってきた富山湾を望む

石動山は能登半島の基部にある標高565メートルの山であり、古代から江戸時代にかけて、加賀・能登・越中の修験道の拠点として栄えた場所である。石動山は正に石が動く山である。古い記録によれば、森羅万象の生命をつかさどる三つの石のうち、「動字石(どうじせき)」が天から堕ちて山が揺れ動いたとある。また、「天より星落ちて石と成り」ともある。

この「動字石」と呼ばれる石が石動山山頂近くに鎮座しておられるが、どうやら隕石ではないらしく、安山岩だそうだ。石動山は礫岩層から成り、もろく崩落が著しい。地滑りや崖崩れ、巨石までもが動く山である。石動山が古くは「ゆするぎさん」とも「いするぎさん」とも呼ばれていた理由がそこにある。

人々はそんな大いなる自然の力に畏敬の念を抱いてきた。そして荒ぶる男神「石動彦神(いするぎひこのかみ)」を奉り。「動字石」近くに伊須流伎比古神社(いするぎひこじんじゃ)を建てた。その後、この古い石動山信仰と仏教が結びつき神仏習合が進んだ。そして呪力、神通力を身に付けんがため、厳しい山林修行を求めて多くの修験者らが石動山に集まってきた。

彼ら「いするぎ法師」は神官でも僧侶でもなく、修験者山伏であった。結果、多くの院坊が出現し、その一帯が天平寺と呼ばれるようになった。

天から堕ちてきたとされる巨石と厳しい修行に打ち込む山伏との関係から、僕はある神話を連想してしまう。それはギリシャ神話『シーシュポスの神話』である。


■ STONE FREE-その4:STONE FREE-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆STONE FREE

石動山への上り途中
石動山への上り途中、森の中を走る

聡明なシーシュポスは、理由は諸説あるが神々によって怖ろしい刑罰を課せられた。それは休みなく巨岩をころがして、タルタロス(地獄)にある山の頂まで運び上げるというものだった。刑罰はそこで終わりではない。本当の刑罰はここからだ。巨岩が山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さで転がり落ちてしまうのだ。かくしてシーシュポスは無益な労働を永遠に繰り返すことになった。シーシュポスの末路を恥じた妻メロペーは、姉妹から離れ姿を隠したという。これは紀元前2000年の終わり頃、おうし座のプレアデス星団の星が一つ見えなくなった事実を伝えているという。天から堕ちてきた巨石「動字石」と山を上り下りする山伏「いするぎ法師」。これが僕の頭の中でシーシュポスの神話と共鳴する。


動字石
動字石は森の中に鎮座されている

僕が石動山にバイクで上るときは、必ずロジェーリの黒いカスクをかぶって上ることにしている。それは山伏の兜巾(ときん)に似ていないわけでもない。ようやく山頂近くの「動字石」のあるところまで上り詰めると、そこは見晴らしの良い開けた場所では全然ない。「動字石」のある場所は樹林の中にあり、眺望は全く良くない。そして蚊も多い。何の為に苦労して上ってきたのか、そこには明確な目的など見当たらない。僕はまた山の麓へと下って行くしかない。そして後日また、性懲りもなくエッチラ上ってくるのだ。

確かにそこには明確な目的や理由などは僕には分からない。「そこに山があるから」と言い訳などできない。しかしその代わりに明確な事実があることに僕は気付く。それは、山に上って来たのは誰に強制されたわけでもない、自分自身の自由意志で上って来たという紛れもない事実だ。自分で自分にバイクで山を上る行為を課したのだ。そして山を下るのも自由意志で下るのだ。重力に引っ張られて堕ちていくのではなく(確かに下りは重力のおかげで上りよりも楽ではあるけれど)、自らの意思で日常の下界へ下っていたという紛れもない事実がそこにある。


伊須流伎比古神社
伊須流伎比古神社

それでは、シーシュポスの場合はどうであろうか。シーシュポスの巨岩自体は重力に引っ張られ、山の麓まで落ちていったが、肝心のシーシュポスはどうだろうか。刑罰を課されているという条件はあるが、作家カミュは『シーシュポスの神話』の中でこう述べている。

「彼は不条理な英雄なのである。神々に対する彼の侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責苦を彼に招いたのである。」

シーシュポスは、言語に絶する責苦を自ら招いたのである。・・・

「神々に対する侮蔑」とはどういうことか。この刑罰の肝は、受刑者が刑罰を嫌悪することにある。嫌悪感・虚無感を意識せざるをえない行為をシーシュポスに課すことである。しかしここで次のように仮定してみよう。もし仮にシーシュポスが自らの意思で、自ら進んで、落ちていった巨岩の所まで山を下り、自らの意思で巨岩を山頂まで運んでいたとしたら。・・・これでは刑罰にはならない。沈黙の中、シーシュポスは心の中で神々を哄笑しているだろう。彼は勝利者といえる。彼は運命を仕方のないものと渋々受け入れたのではなく、運命を能動的に乗り越えていることになるだろう。

「死への憎悪」とはどういうことか。人間は生まれた瞬間から死に近づいていく。生きている時の努力や成長は最終的に死によって灰と化す。そんな虚無感に無意識な時はよい。だがふとした瞬間、意識に目覚める。「努力したって、どうせ死ぬんだから」と。その瞬間に日常の繰り返しが虚しくなる。これこそ神々がシーシュポスに課そうとした刑罰だ。不幸は意識に目覚めた時に生じる。しかし「死への憎悪」とは、そんな虚しさを強要する死に対し、一歩も退かず抵抗し続けることだ。どうせいつかは死ぬんだからと、虚しさの中で努力や成長を放棄するのではなく、カミュの言葉を借りれば「死と和解することなく死ぬ」ように、最後まで努力し成長しようとすることだ。

「生への情熱」とはどういうことか。人間は生まれてきたのだ。生まされたのだ。常に受動態として。確かにそうかもしれない。シーシュポスが刑罰を受動的に課せられたのと同様に。じゃあ、今生きている自分、今存在している自分は何なのか。シーシュポスに課された刑罰のように、神々によって強制されて今を生きているのか。惰性で生きているのか。死ぬのが怖いからとりあえず生きているのか。僕はそんな生は真っ平だ御免だ。

僕は能動的に、生きたいから生きるという人間でありたいと願う。確かに最終的に死を避けることはできない。それなのに死の対極である生を生きる。これこそカミュのいう不条理だ。「世界は不条理である」それが真理だ。不条理が真理ならば、その不条理に添うのが良かろう。繰り返しの徒労に終わる日常の労苦を、自らの自由意志で行うのだ。誰かによる強制ではなく自由意志で行為するのだ。そこに本当の意味での幸福感があるように思う。シーシュポスの喜悦のように。

石動山の山頂へ向かう道
石動山の山頂へ向かう道。石段に歴史が宿る

■ STONE FREE-その5:石動山曼荼羅-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆石動山曼荼羅

石動山山頂
石動山の山頂を大御前(おおごぜん)と呼ぶ。標高565メートル

石動山は、時の政治的力関係の中で幾度となく栄枯盛衰を繰り返してきた。室町南北朝の対立から越中守護普門利清によって全山焼き討ちにされた。それでも石動山は復活した。天平寺と呼ばれる北陸の有力寺院として。しかし約250年後には、本能寺の変をきっかけとして石動山合戦が勃発した。後に加賀国百万石の基礎を築いた前田利長は、石動山の院坊に悉く火を放ち、一宇残らず灰と化した。仁王門の左右には石動山側千六十人もの首が晒されたという。この石動山合戦の際、僧兵般若院快存の奮闘が特筆される。彼は大剛の者で全身矢を受け討ち死にした。正に今弁慶!


石動山の原生ブナ林
石動山の原生ブナ林。石動山が禁断の聖地であることが、ブナ林を乱開発から守った

江戸時代になり、それでも衆徒達は再興を試み復活する。あたかも築いては崩し、また築いては崩す曼荼羅の世界のように。何かを完成させることが目的ではない。また反対に破壊することが目的でもない。生滅循環すること、終着点など存在せず、何処かに執着することなく繰り返すこと、そのプロセス自身の中に生の正体が宿っている、そのように僕には思えてくる。繰り返すためのエネルギーそのものが、生の正体であり、生きている証拠なのだ。


仁王門跡
仁王門跡

明治時代になって、神仏分離令が発せられるや否や、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の中で石動山は瓦解する。現在は数軒の住民が住まう超過疎地である。しかし石動山の史跡発掘や重要建築物の再建及び整備・保存が、少しづつ進行中である。生滅を繰り返す石動山曼荼羅の世界に、僕も繰り返し繰り返し、今後もバイクで上ってくるであろう。自分で定めた日課と行動規範に従って。

同じような繰り返しではあるが、少しずつ僕自身は変化し、石動山の史跡発掘や整備も進行して行くに違いない。それでいい。それでいいのだ。無常の虚無感を越えたところに、巨岩以上の硬さと強さが待っていると僕は感じる。最後にカミュ作『シーシュポスの神話』から引用して中締めとする。

「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」


▷追記
タイトル及び小題の「STONE FREE」は、ジミ・ヘンドリックスの曲名から引用しました。


▷参考文献
『国指定史跡 石動山』石川県鹿島町発行・2004
『シーシュポスの神話』A.カミュ著・清水徹訳 新潮文庫・1969

(了)

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お読みいただきありがとうございました。

■ 私見、最高の資産運用 by T2017/09/23

資産運用の一環としての菜園と薪
預金をしても利子がわずか、株や為替はリスクを伴う。あなたは将来に向けて何に投資しますか?不安を挙げればきりがありません。自分のできることにベストを尽くすだけです。

お金に限定して考えてみましょう。確かに貨幣価値は一定ではありません。でもそれを言い出したらきりがありませんから、ここでは現実的に資産金額を大きくすることに特化して考えてみましょう。

最も利率の良い投資商品は何か?それは終身年金に投資して且つ健康寿命を伸ばす努力をすることだと個人的に考えます。これが掛け金に対し最も利率の良い投資商品だと僕は考えます。

終身年金には公的年金と私的年金があります。公的年金の未来は決して明るくはありませんが、掛け金を支払わなければ絶対にもらえません。私的年金は終身となると掛け金は高くなりますが、ここががんばりどころの投資です。早死にしたら損だという言葉の誘惑に騙されてはいけません。早死にしたらそもそも将来の不安など考えなくても良いのですから。自分の経済力を鑑みベストを尽くして投資します。

と同時に自分の健康状態をベストに保つ努力をします。具体的には栄養のインプットとアウトプットに配慮します。良質の食事を摂取すると同時に服薬に依存しないインプット。そして摂取した栄養を運動や肉体労働など良質な新陳代謝でアウトプット。

万が一病気になった時に備え、最高のコンデションで自らのコンデションを回復できるように医療保険にも加入しておきます。そのくらいの投資は必要経費です。お金では幸せを買うことは 困難ですが、悲劇を乗り越える手段となり得ますから。

そうすれば健康に長生きすればするほど、掛け金の総額に対し受取金の総額を大きくすることができるでしょう。少なくとも現在の銀行預金の利息よりも大きくすることができるでしょう。

そして、たとえ日本経済が滅び日本円が無価値になったとしても、サバイバルに必須な健康でタフな心身を獲得することもできるでしょう。