One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ TADで過ごす休日(続き) by M2017/11/27

昨日鑑賞した開館記念展Part2「素材と対話するアートとデザイン」の続きです。

入場してすぐフロアーの天井から数字の羅列が部屋いっぱいに広がっていました。《COLOR OF TIME》、白から黄色、オレンジを経て赤、紫色、最後は黒へ。

展覧会初日の2017年11月16日の富山市の空の色の移り変わりを日の出の06:30から色が見えなくなる19:49までを100色のグラデーションで表現したものとのことでした。
COLOR OF TIME
数字は時刻を示しています。

COLOR OF TIME
中がトンネルのようになっていて内側からも鑑賞できました。背の高い夫は少々屈みながらの鑑賞。

COLOR OF TIME
右端が06:30、左端が19:49です。

続いて私たちを釘付けにしたのが、金属製の銀杏を彷彿させる作品《植物空間Ⅵ》。素材はコルテン鋼という重くて、冷たくて、硬い鉄鋼素材とのこと。そのコルテン鋼が見せる柔らかい表情は一見の価値があると思います。
植物空間Ⅵ
ただ、残念だったことは、展示空間にゆとりがなかったことです。作品が持つ力が狭い空間に閉じ込めらている感じを受けました。富山県美術館の所蔵作品でしたので、次の機会には広々とした空間で鑑賞したいと思いました。

そのあとは、革新的な素材による作品の数々を鑑賞し、最後に洞窟のような空間で展示されていたのが《彩虹ガラス》でした。2枚の板ガラスの間に彩虹フィルムを埋められた作品に、ライトを当てながら鑑賞しました。鑑賞者と作品との相互作用で産み出される反射光と透過光が作り出す世界に酔いました。
虹彩ガラス

虹彩ガラス
One's Way- それぞれのあたりまえ -のイベントでご協力いただいている本郷仁さんの作品に通じるものがあると思っていたら、それもそのはず、企画が「富山ガラス工房」となっていました。

コレクション展Ⅱも楽しかったです。2週間前とは展示が入れ替わっていました。椅子のコレクションは前回同様、座れる作品もあり、フォルムだけでなく、座り心地も楽しめました。
椅子のコレクション

雨模様の天候のおかげで落ち着いて鑑賞できました。写真はTAD3階からの眺めです。写真には写っていませんが、立山連峰が雲の上にうっすらと見えました。開放的な建物である一方、展示室は落ち着いた雰囲気で、そのコントラストもTADの魅力の一つかもしれません。特に瀧口修造コレクションが展示されている一室は、おもちゃ箱をひっくり返したような展示品に希少な一品が混ざっており一つ一つ鑑賞していると時間がどれだけあっても足りません。また、展示品もさることながら、その建築も必見です。詳しくは、こちらを!
http://tad-toyama.jp/collection/permanent
TAD3階からの眺め

次の訪問は、来年3月21日から始まる開館記念展Part3「デザインあ展」と「コレクション展Ⅲ」になりそうです。

■ タフで厳しいアート by T2017/11/27

富山県美術館では現在、コレクション展Ⅱ、素材と対話するアートとデザイン、ビエンナーレ第5期が行われている。

ジャスパージョーンズ「消失Ⅱ」、牧田恵美「青い鳥」、土谷武「植物空間Ⅵ」が今回の私的big3

植物空間Ⅵ

前回コレクション展Ⅰの、クリスト&ジャンヌ=クロード「ランニング・フェンス」も合わせ、個人的にはタフで厳しいモダンアートが好きだ。呼称が適切かどうかは別として、ミニマル及びコンセプチュアル・アートは、現状の生き方、考え方に、常に問題提起を挑んでくる。一筋縄にはいかない。決してスッキリさせてはくれない。だから何度もクセになる。気が付けば5時間も会場でウロウロしていた。

歩かないと歩けなくなるのと同様に、見ないと見えなくなる。ましてやタフなアートは見ても分からない。見る以前に、それは見るということがそもそもどういうことなのか再考を迫ってくる。だから分かるはずがない。分からないから分かろうとハードに努力するしかない。しまいには分からないのがあたりまえの世界になってくる。世の中理解できてスッキリすることなんてほとんどあり得ないのだと。

作品自身に対する理解は依然として朦朧としているわけだが、一方で、そこから離れた日常の風景や行為に、時には微妙な変化が生じてくることがある。マインドセットがリセットされることもある。以前まではハードルの高かった日常の諸問題に対し、そのハードルが若干下がったような印象を受けることがある。

つまりこういうことなのかもしれない。

タフで厳しいアートには、それを前にしても一歩も引かず、決して諦めない鑑賞者を、よりタフな人間に鍛え上げる、そんな力が宿っているのかもしれない。