One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 一歩先に by T2019/10/01

ヤブラン
富山マラソン2017の女子優勝者である野尻あずさ選手(富山県出身)のお母様は、毎年富山マラソンにエントリーされているそうです。

実は、完走したことがないそうです。でも、
「今年の大会は昨年よりもこれだけ長く走ることができた」という進歩をモチベーションに、毎年楽しんで走っておられるそうです。

すごく良い話だと僕は思いました。

日本人は几帳面すぎるのでしょうか。マラソンといえば完走すべきという固定観念と周囲の評価に囚われ萎縮してしまうのでしょうか。

マラソン大会に参加してみたいな、と思ったならば、年齢や体力など関係無く、すぐエントリーされれば良いと思います。

「医療スタッフや周りの人に迷惑をかけるから、年甲斐もなく、そんな恥ずかしいことは止めろ!」と足を引っ張る他人が時々います。中島みゆきの歌詞のように、「戦う君のことを戦わない奴らは笑うだろう」といった奴らがいます。

そういう戦わない輩は無視しましょう。何も危険な雪山へ単独で登りに出かけるわけでもありません。街中のたかがマラソン大会です。

たかがマラソン大会です。興味の無い人が大半で、それがフツーです。
でも、もし自分もマラソン走ってみたいな、と興味を持ったなら、すぐやりましょう。
そして、少しずつ走りましょう。
そして、ずっと走り続けましょう。

そしていつの日か、「お先に」と言いましょう。
応援します。

■ マラソンは脚で走るのではない by T2019/10/02

富山マラソン参加案内
皆さんは、マラソンは脚で走るものだと思いますか? それは誤りです。
その反証として、脚の不自由な人も車椅子マラソンという手段で走っています。

マラソンは脳で走る、と僕は思っています。正確に言えば、脳の中の前頭前皮質という部位で走るものだと認識しています。

前頭前皮質はいかなる生物の中でも人間の脳において最も発達しています。つまり前頭前皮質は人間をより人間らしくさせる部位と言えましょう。

前頭前皮質の働きの一つに、感情のセルフコントロールがあります。目先の利益よりも長期的なより大きい利益を選択したり、気分のムラを抑制し感情に左右されない行動をとることをつかさどります。

マラソンを走り切ることは長期戦です。42km強という長距離であるだけでなく、42kmを走るといった非日常的行為を完遂するための準備も長期戦です。さらに80歳90歳になっても走り切る能力を維持し続けたいとなれば、かなりの長期戦です。

ここで重要な点が考えられます。
つまり、マラソンが前頭前皮質の働きによって走ることだとすれば、その反対にマラソンを走り続けることにより前頭前皮質がより活性化され発達するのではないか、ということです。最近の脳科学では加齢にかかわらず活性化させることによって脳は発達し続けることが説明されています。

マラソンに限らず、日常的にランニングを続けることによって、感情のセルフコントロールつまり自己管理能力を高めることができるとすれば、これは大きな利得です。

実際に具体的経験知として、ランニングを日常的に行うようになる以前と以後において僕の貯蓄資産形成度は上昇したと分析しています。貯蓄という行為は目先の欲求に左右されない長期的視点と持続力が必要不可欠です。正に前頭前皮質の面目躍如です。

2019富山マラソンまで4週間を切りました。ただ走るだけのために参加費1万円程の投資が必要です。短期的には損で無駄に見えるかもしれません。しかし長期的には自己管理能力の向上により大きい利益を生み出す投資だと僕は認識しています。

マラソンは長期投資。マラソンでフィナンシャル・インデペンデンスを!

■ アミタケを食す by M2019/10/03

アミタケ_山菜図鑑より
先日、金山在住の方からアミタケ をいただきました。傘の裏が網目状のキノコなので「アミタケ」。

ウエブサイトで食べ方を調べ、調理にかかります。まずは沸騰したお湯に入れて茹でます。黄土から赤紫に色が変化。その後、流水にさらしごみ等を取り除きました。塩漬けで一晩保存。

翌朝、半分をお味噌汁に、残り半分は辛子和えに。ヌメリのある食感、味、すべてにおいて大満足!

金山の魅力にキノコの存在を忘れてはいけませんねえ。

写真は「山菜図鑑」のサイトより転用
https://sansaibook.com/

■ 芝生の復讐 里山編 by T2019/10/04

芝生
2009年8月某日、
僕は汗だくになって庭の芝刈りをしていた。

芝生広場には日陰が少ない。暑さに強い高麗芝は日光が大好きだから。
まず最初に地面に這い蹲り、芝の中に生えた雑草を引っこ抜く。
「身長1メートル以上のガーデナーはいない。」と言ったのは、チェコの作家カレル・チャペック。彼はロボットという言葉の発明者でもある。

雑草を引っこ抜いた後、草刈機で芝刈り。なるべく高さを揃えるように刈って行く。
時々、地面に這い蹲り目線を芝の高さに近づけて眺めてみる。やっぱりガーデナーは身長1メートル以下の生物だということを再確認。

それにしても、キレイに刈り揃えられた芝生に日光がサンサンと降り注がれる光景は、何と気持ちの良い光景か!
その時、何故か突然閃いた。

「あっ、そうだ!バリカンを買って、Bouzuにしよう。」

それから10年が経過した。現在もそのバリカンを使用している。
かつて坊主頭は男子の去勢的手段として用いられていた時代があった。
しかし現在では逆に、自らスキンヘッドに近い坊主頭やモヒカン頭にする行為は、極めて挑戦反抗的。

話は以上。

以上お話ししたこのエピソードに僕は「芝生の復讐」と勝手に命名している。特に意味は無い。当然の如く「芝生の復讐」というタイトルは、リチャード・ブローティガンの短編小説から来ているが、それにも特に意味はない。突然ふと思っただけだ。

バリカンを購入して、10年が経過して、庭の雑木林が成長し、木陰が増え、そういうわけで高麗芝は自然とフェードアウトしつつある。
だがしかし、

復讐的芝生は、僕の頭上に今も存在し続けている。

■ 里山(の塩)で脱塩 by T2019/10/05

里山の塩完成


高血圧などの血管障害を予防するためには、減塩が大切!健康診断ではよく言われます。
でも、海水を煮詰めた天然塩の場合はちょっと違います。


一般的に市販されている食塩は塩化ナトリウム濃度が99%以上。カリウムなどのミネラルは含まれていません。カリウムは過剰な塩分を排出する働きがあり、とても重要なミネラルです。よって一般的な食塩を摂取する際は意識して減塩に努めたり、他の食材からカリウムを摂取したりする必要があるというわけです。


一方、海水を煮詰めた天然塩の場合、塩化ナトリウム濃度が約78%。それ以外の約22%は塩化マグネシウムや塩化カルシウム、塩化カリウム(2%)などです。海水成分率は人間の血液や汗の成分率に近いそうです。人間も海洋生物から進化してきたという証拠でもあるでしょう。


というわけで、もうお分かりかと思いますが、天然塩を摂取していれば自然な形で必要なミネラルも摂取でき、過度に減塩を進める必要もないというわけです。


富山湾の水深333mから汲み上げている海洋深層水。この海洋深層水をそのまま煮詰めた「里山の塩」。塩化ナトリウム濃度が78%なので最初から薄味です。さらにカリウム、マグネシウム、カルシウムなどのミネラルも同時に摂取できます。


でももっと大切なことがあります。どんなに良いモノを摂取していたとしても、身体を動かし新陳代謝を続けないと体内で淀んでしまいます。


塩炊きの燃料は、金山里山の会活動で頂いた薪。里山での薪作り作業で汗を流し自然な形で脱塩。これが最も大切だと思っています。

■ Led Zeppelin Ⅳ … by T2019/10/06

Led Zeppelin Ⅳ

涼しくなってようやくレド・ゼペリン(Led Zeppelin )のアルバムが聴きたくなってきた。

日本ではレッド・ツェッペリンと表記されるが、音楽評論家のピーターバラカン氏によればレド・ゼペリンと表記した方が発音としてより近いとのこと。

かの世界的指揮者カラヤン氏も絶賛したらしい名曲「天国への階段(Stairway to Heaven)も良いが、僕はその前曲「限りなき戦い(Battle of Evermore) 」も大好きだ。1960年代に活躍した英国フォークロックバンド、フェアポートコンヴェンションの女性ヴォーカルであるサンディ・デニーが参加していて、聴く人を微妙な世界へ連れて行ってくれる。

今や英国ハードロックの古典の域に達した感のあるレド・ゼペリンは、里山雑木林の中で聴くにはベストマッチだと僕は断言する。その証拠にアルバムジャケットのデザインを見て欲しい。

大の大人が若者に媚びようとして今流行りの曲を聴く姿には、この上ない痛さというものを感じる。その姿は芯の無い田舎人が都会に媚びる姿にシンクロする。

赤ちゃん返りすることなく、堂々と、時代を超える音楽を次世代に継承していくのは年配者の責務である。

■ ローストにハマる by M2019/10/07

豚モモ肉のロースト
最近、豚のローストにハマっています。

きっかけは去年の夏、金沢の片町にあるTAWARAで飲んだワインに始まります。ワインの渋さと豚脂との相性が素晴らしく忘れがたい体験となりました。

その後、富山にあるワイン卸店カーブ・ロンドさんで豚肉に合うワインを購入し、飲みくらべる中で行き着いた調理法がローストです。

豚モモ肉の塊に塩胡椒しフライパンで表面を焼いた後アルミホイルで包み、オーブンで20分ほどローストしていただくのです。ソースは表面を焼いたフライパンに残った油に醤油、バター、メイプルシロップ、ビネガーを入れて一煮立ちさせて作ります。豚肉の旨味が凝縮されており満足!

ところで、里山暮らしの中で挑戦したかったことの一つがこの地域の伝統的猟法で捕獲された鴨を自分の手でさばくこと。自分の手でさばいた鴨をローストして食べてみたいという想いが再燃しました。

かつては各家庭で鳥をさばいて食べていたことと想像します。団塊の世代以降そのような暮らしは失われましたようです。ロストジェネレーションを取り返す最後のチャンスは今。

などと思いながら昨晩はオーガニックワインで豚モモ肉のローストを楽しみました。デザートは庭のイチジクのコンポートと自家製ケーキ、マロンペースト添え。いつも通りあるもので作るメニューです。スーパーマーケットで購入した食材はありませんでした。

■ 田舎の土地は資産価値が低いのか? by T2019/10/08

秋の七草_ハギ
都会に比べ田舎の地価は安い。確かに金融資産としての田舎の土地評価額は低い。
だからと言って、田舎の土地は資本としても価値が低いのだろうか?

現在の日本は資本主義社会である。資本主義とは資本を第一とする社会システムである。
資本とは、生産手段つまり価値を生み出していく元手である。
つまり資本主義とは、新たな価値を生み出し成長し、そうして拡大再生産し続けることを基本としている。

多かれ少なかれ日本人は資本を元手に生き、サラリーマンも、自らの労働力という人的資本を元手に、自らの労働価値をさらに高め精進しながら成長し生きている。

つまり資本主義に生きるということは、常に成長し続けることに価値を見出すことである。

今日、僕は新たな土地に花の株分けをした。今日という1日を思い切り楽しんだ。なぜ楽しい気持ちになれたのか? それは学ぶことができたからだ。学びは成長だからだ。

里山の土地は、花の株にしろ僕の学びにしろ、成長の手段としての資本である。

■ 斉家修身 by T2019/10/09

配管の腐食

家を建ててから19年、キッチンシンク下の配管の腐食が進み交換することにしました。水漏れが始まってから交換しても良いそうですが、気持ちが悪いので交換してもらうことにしました。

メッキ表面に付着したホコリ等をこまめに拭きつつワックス等を塗っておけば今後さらに長持ちしますよ、と馴染みの配管業者に教わりました。

夫婦二人で家を維持していくことを通じて、今までにたくさんの業種の人々と関わりを持ち、多くのことを学ばせてもらっています。そう考えるとメンテナンスや補修にかかる出費は社会勉強のための授業料みたいなものに思えてきます。

修身斉家とは儒教の実践倫理。まず自分の行いを正しくしてのち家庭を整える。
しかしながら、家庭を整える主体的実践が個人を成長させる機会にもなり得るような気もします。

■ リスペクト by T2019/10/10

犬猿の仲

僕は犬や猫が嫌いではない。そもそも犬や猫が好きであるとか嫌いであるといった感覚が僕には分からない。だから嫌いではないとしか言えない。

あなたは空気が好きか嫌いか?と尋ねられたらどう答えますか?
あなたは水が好きか嫌いか?と尋ねられたらどう答えますか?
あなたは地球が好きか嫌いか?と尋ねられたらどう答えますか?

僕にとって、犬や猫が好きか嫌いか尋ねられるのは、空気や水が好きか嫌いかと尋ねられ困ってしまうのとよく似た感覚なのである。

子供が好きか嫌いかといった問いにも困ってしまう。命に対する好き嫌い感覚が僕には分からないのである。空気や水という存在が好き嫌いというレベルを超えた存在であるのと同様に、命の存在も好き嫌いというレベルを超えた存在だと思うからである。

我が家では現在のところ犬も猫も飼っていない。先述の理由で犬や猫が好きでも嫌いでもないと言うと、周囲の人から冷めた人のように思われることが時々ある。犬猫アレルギーと勘違いされペット同伴で我が家を訪問するのをためらう人もいる。

ペットを飼っていない理由を強いて挙げるとすれば、自由を束縛されている動物を見ると可愛そうだと思うからである。好き嫌いなどの都合で他の命の自由を束縛するのを、僕個人に限って言えばためらうからである。

自由意志で我が家を訪れてくれる野鳥や小動物は大歓迎である。ミミズやアシナガバチやヘビも大歓迎である。マムシやイノシシやスズメバチなどは、お互いの共存のために柵誘導や棲み分け策を講じることはある。

自分は神ではない。命ある存在に対し好き嫌いといった審判は、自分の領域外である。自分の領域は、命ある存在に対し敬意を払うまでであると思う。