■ 考える力 by T ― 2019/11/20
突然ですが、現在話題となっている大学入試制度改革の論点は、「考える力」です。
でも、入試で「考える力」を育てるわけでなく、入試で「考える力」を評価するようにすれば、高校での授業が覚える教育から考える教育にシフトするであろうというわけです。
では、そもそも「考える力」とはどんなものなのでしょうか?
話は変わりますが、かつてある知人がこんなことを話していました。
「家庭で子供との会話の時間を増やすために食器洗浄機を買ったのよ。そうすれば家事時間を短縮できて、子供との時間を確保できるから。」
それを聞いて僕は、ふと思いました。
「それならば、親子で一緒に食器洗いや家事をしながら会話すればいいんじゃないの?親子との会話って、会議のようにスケジュールを設定して、面と向かってさあ話しましょう!ってするものなの?」
覚えることが知育教育だとすれば、考える力とは前述の会話に関するエピソードと同様に、生活全体の具体的臨床的場面で養っていくべき全人教育みたいなものなのではないかと僕は考えます。
そもそも、「考える」という行為はどのようなメカニズムで進行するのでしょうか?僕は、考える際に材料が必要であると考えます。材料とは即ち知識や経験です。考えるとか創造するとかアイデアを生み出すといった知的行為は、多種多様な材料としての知識や経験をシナプス(神経回路)でもって繋げていく行為だと考えます。一見無関係のように見える知識と知識の間に共通点を見出したり、橋をかけたりしながらユニークな知恵やアイデアを生産していくことのように考えます。
だからこそ考える行為の大前提として、ベーシックな知育教育がとても重要です。系統立てて知識を覚え、頭の中に整理記憶しておくことがとても重要だと僕は考えます。そしてそのような知育教育こそ学校教育といったシステムにおいてとても効果的に養うことができると僕は考えます。しかし、考えるという全人教育は、学校教育といったシステムのみでは限界があると僕は考えます。考える力を養うためには、学校のみならず地域コミュニティーや一般社会、とりわけ家庭といった生活全体の多種多様な場面が必要なのではないかと僕は考えます。
一例を挙げましょう。最近、高校生でも自転車や公共交通機関を利用すればよいところを、家の車で登下校している生徒が以前よりも増えたような気がします。これは問題解決のために自ら考える貴重な機会を逸しているように僕には感じられます。とても勿体ないことです。ややもすれば授業中椅子に座って考えるよりも、自らの脚を使って主体的に考え行動した方が効果的に考える力を養うことができるかもしれません。
このような考える力について、皆さんはどう考えますか?
大人が主体的に考える姿勢を示すことが、子供の考える姿勢を育てる最高のテキストだと僕は考えます。