One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 風景の成り立ち by T2020/09/05

ガラス作家、本郷仁氏の個展に行ってきました。タイトルは「風景装置」

風景装置

鏡に映る自分、鏡が反射する光、その鏡が刻一刻と移動し、自分自身の視点も刻一刻と移動する。それらが複雑に絡み合って自分の眼に映る世界が変化する。世界を眺めているのは自分なのだが、その自分自身も風景を作り出している客体表象の一部になっている。そんな世界に導いてくれる「風景装置」。

日頃私たちはよく口走ります。「田舎の田園風景はいつ見てもキレイ」「里山の雑木林は軽井沢にいるみたい」「やっぱり自然の中が一番」「子育てや教育は自然の中に限る」などなど。

言いたいことは分かります。でも一方で、何となくうわべを撫でただけのような薄い感覚も否定できません。何故なら風景は見られる側で私は見る側、自然は自然で人間は人間、そこには分断する壁があるような言葉の響きだからです。

本郷仁氏の「風景装置」は、そんな分断の壁を取り除き、自分自身も自然風景を作っている重要な要素であることを示唆してくれました。

例えば、外出する際どんな衣服、帽子、靴などを着用するか、家の前庭にどんな植栽を施し手入れはどうか、道路や側溝にゴミを捨てるか否か、あるいはゴミを拾うか、どんな車種のどんな色のクルマを走らせ、そのクルマは綺麗か汚れているか、あるいは敢えてクルマを使わず、歩いたり走ったり自転車に乗ったりするか、どんな話し声や音を周囲に発するか・・などなど、全てが風景を作っていく。

普段の日常で自分自身がどう行動するかによって風景を作り風景が変わっていく。自分自身がどう考えるかによって風景が違って見えてくる。

自分はたった一人のちっぽけな存在、でも自分の身の処し方ひとつで、自分の住んでいる里山の風景は上高地にもなり、軽井沢にもなり、ダウンタウンにもなり、そしてスラム街にもなり得る。

世界を変えたいなら先ず自分を変えること。「風景装置」からそんなメッセージを感じました。

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