One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 趣味はトライアスロン by T2017/07/07

初物のトマト
趣味は?と尋ねられたら「トライアスロンです。」と僕は答えます。

サイクリング、ランニング、そしてガーデニングのトライアスロン。ちなみに僕はスイミングが苦手です。

7月7日、新暦の上では七夕。今日は梅雨の晴れ間の閏皐月晴れ。今晩は星を拝めるかな?
早朝から雲一つ無い爽やかな朝。まずは菜園に行ってトマトの初物を収穫。それから1時間ジョギング。朝食を食べてこれから自転車で出勤です。

今日はガーデニング→ランニング→サイクリングのトライアスロンでスタートしました。オフィスでのデスクワークは身体の方を休めるには丁度良いです。そんな時間が無いと、梅雨の晴れ間の貴重な時間、放っておいたら限りなく外活動してしまうかもしれないから。何せ僕の趣味はトライアスロンですから。

それでは七夕にかけてトライな一節を。
天に星 地には花 君に愛  J・ゲーテ

■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その6:重荷を降ろして自由に)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★重荷を降ろして自由に

閑乗寺公園から春霞の散居を望む
[閑乗寺公園から春霞の散居村を望む]

そもそも、人間の正体がデータをダウンロードされた存在なのかもしれない。遺伝子情報をコピーされたモバイルな端末なのかもしれない。ひとつのフォルムとしての人間個体は有限である。だから子孫を残し、その核となる遺伝子は新たな固体に保存されることを望む。遺伝子情報自らが新たな固体を生ましめるモチベーションなのかもしれない。

哲学者サルトルは言った。人間の「実存は本質に先立つ」と。人間にはある特定の目的があってこの世に生まれたのではなく、存在すること自体のために生まれてきたのだというわけだ。これを実存というらしい。だから存在すること自体が価値あることなのだとサルトルは言った。

例えばここに自転車がある。自転車は移動するという目的を持って生まれた(生産された)道具である。この移動するという目的が道具としての自転車の本質である。その目的・本質がなければ自転車という道具は存在し得ない。だから自転車の本質は実存に先行している。時々、実存的愛情を我が自転車に感じる時もあるのだが。

・・・では人間の場合はどうか。人間は道具と違うというわけだ。むしろ反対で、人間の実存は本質に優先されるとサルトルは言っているのだ。しかし一方でサルトルはこうも言っている。これは同じフランス人思想家アルベール・カミュに対して言った言葉である。「君が君自身であるためには、君は変わらなければならない。」と。ひょっとしたらサルトル哲学も更新されねばならないのかもしれない。「伝達される遺伝子情報は、一人の実存的人間に先立つ。」と。そう考えると世界はハードボイルドだ。非情だ。でもこれが現実なのか。しかし、これはあくまでも僕個人の勝手な意見だ。だから無視していただいたほうが良いかもしれない。

とはいえ、仮にデータを保存・更新・継承していくことが、人間、生物、そして世界の成り立ちだと仮定するとしよう。それならば望むところだ。サイクリストとしての僕は、サイクリングで得られた情報・発見・記録・認識、思想等を、自分自身だけの記憶や個人的記録など自分の身辺にのみ保存しておくよりも、もっと安全・安心且つ恒久的な場所に保存することを考えた方が良いのではなかろうか。それは危機管理にもなるし、それ以上に自分自身が身軽になる。シンプルになる。自分は単なるモバイルな端末であるが、それが返って僕のフットワークを軽くしてくれる。決して世界はハードボイルドで非情なばかりではない。非情なのではなく、重荷を下ろし、しがらみを断ち切って、正に自由になることができる世界なのかもしれない。

「もし、明日、この世が終わりを告げるとしても、私は今日、林檎の木を植える。」
マルティン・ルター(ドイツのキリスト教宗教改革者)

「今日死んでもいいように生きなさい。そして同時に、千年生きるつもりで今日生きなさい。」              
マザー・アン・リー(キリスト教シェーカー教団開祖)

僕はこの瞬間を大好きな自転車に乗ってモバイルすれば良いのだ。僕のサイクリストとしてのアイデンティティやデータは、その都度、NCを通じて市場(マーケット)に預ければよい。否、NCという「天」に預ければよいのだ。そうすれば、僕の財産、否、僕自身といっても良いかもしれない、僕は生かされ続けることになる。さらに欲を言えば、それが誰か大切な人との合作データだったら・・・これ以上望むことはない。ちょっと感傷的になってきたな。でもひょっとしたら、彼岸、極楽浄土、天国、神の御国に生きるということは、そういうことなのかもしれない。本当に有り難い事だ。合掌。アーメン。


・・・・・・・マタイによる福音書6章19-21・・・・・・・・

天に宝を貯えなさい。

地上に宝を貯えてはならない。そこではしみがつき虫が食い、
泥棒が穴を開けて盗む。

天に宝を貯えなさい。
そこでは、しみもつかず虫も食わず、
泥棒が穴を開けて盗むこともしない。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。
“For where your treasure is, there your heart will be also.”

(了)

お読みいただきありがとうございました。

※これまでのシーリーズはこちらをご覧ください。

※ニューサイクリング2013年3月号に掲載された『さらばもう一度』の口絵、および前編、後編は以下をご覧ください。

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421647

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421648

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481604





■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その5:蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ


綽如上人墓かの眺望
[綽如上人墓からの眺望。上人墓の周りには墓地が広がる]

日常的なサイクリングはこのように気付きの連続だ。そのような気付き、云わば知的財産をどのようにして仲間と共有し、社会に公開し、メッセージを伝えつつも、一人のサイクリストが発する知的財産のオリジナリティを保護していくか。これは社会が成熟していくにつれてますます重要になっていくだろう。

ちょっと話がおおげさになってきたようだ。確かにその都度、財産保護のために公証人等に依頼したりするのはあまりにも事が大げさであり、「そこまでするか!?」となり、エゴイスティックであり、云わば非現実的である。そもそも著作権や知的財産の保護とは如何なるものか。僕は金銭的価値というよりも存在論的価値の問題が大きいと思う。ある人間が日々何を考えて生き、何を伝えたかったか。云わばある人間のアイデンティティの保護に関わる問題だと僕は思う。あたかも肉体は滅んでもソウル(魂)が生き続けるかのように。ひょっとしたら絶対に勝ち目のない死という相手に対し、一泡吹かせるささやかな抵抗、それは「記憶・記録」なのかもしれない。ちょっと気障な言い方をすればそれは「思い出」。


八房梅(やつふさのうめ)
[綽如上人墓の近くに咲いた八房梅(やつふさのうめ)。八重咲きの紅梅はひとつの花から8つの実をつけるという]

綽如上人の墓前を通過する同宗道の道標
[綽如上人の墓前を通過する道宗道(どうしゅうみち)の道標。聖なる道]

では、誰もが手軽にできて現実的且つスマートな知的財産保護、というよりはむしろアイデンティティ保護の方法として、どのような方法があるだろうか。自転車関係のことに限っていえば、現時点で僕が考える良い方法の一つが、『月刊ニューサイクリング』に作品(執筆や写真、イラスト等々)を投稿することである。雑誌という有料のマスメディアを通じパブリックに公開することである。つまり「知的財産を市場に乗せること」である。自分が発見した知的財産、それは自分が発見したと信じる知的財産であってもよい。そんな知的財産に市場の洗礼を受けさせることである。これには2つの理由がある。

一つは、その知的財産が財産価値を持つだけの代物なのか、はたまた、オリジナリ性を持つものなのか、まずは「NC企画」という出版社で審査され、その後、金銭を媒介とした市場で評価されるからだ。決して独りよがり、自己満足、主観的で終わらず、不特定の第三者の視点が加わるということだ。

もう一つの理由は、『月刊ニューサイクリング』というマスメディア媒体が公証人的役割を果たしてくれるということだ。本名で投稿フォームを出版社に送信し、一人のサイクリストとして身分証明を行い、『月刊ニューサイクリング』に掲載された際には、作品と著者名が公開される。そして自転車を通じて得られた新たな発見、新たな認識、新たな思想等、云わば一人のサイクリストとしてのパーソナリティが保護されるわけだ。『月刊ニューサイクリング』の優れた点は、日本のサイクリング雑誌の中で最も古く、最もヴィンテージが高く、日本のサイクリング史を網羅していることだ。そして1962年の創刊号以来、徐々にバックナンバーがDVDという形で電子データ化されている。そのDVDが市場で販売されており、云わば巷にバックアップが無数に存在するということだ。

このような観点からすればNC(『月刊ニューサイクリング』及び「NC 企画」)は日本のサイクリングに関する情報集積地及び発信地、つまりIT用語で言えばクラウドである。端末に位置するサイクリストは、オリジナルな発見や認識、記録等をNCに預け永久保存してもらうことができる。また他のサイクリストが必要な自転車に関する知識や情報を入手したい時は、『月刊ニューサイクリング』のバックナンバー等を見返したり、「NC企画」にアクセスすることで入手可能だ。昨今は個々の人間が互いに繋がり合うウェブの時代から、中枢神経系を有するクラウドの時代。云わば地上を這う蜘蛛(クモ)の時代から、空天に浮かぶ雲(くも)の時代に移行している。再度繰り返す。NCに個人的情報を投稿・送信する行為は、自転車に関する中枢情報基地いわばクラウド=「天」に知的財産を預けることと捉えることができるのではないか。



■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その3:名水は清濁併せ吞む)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★名水は清濁併せ呑む

瓜裂清水は普段僕がロードバイクでエクササイズするコース上にある。そこは舗装路に面しており、レーサーシューズを履いたままでも楽に立ち寄ることができる。



瓜裂清水の入り口
[瓜裂清水(うりわりしょうず)の入り口]

今から600年以上も前、北陸浄土真宗の拠点である瑞泉寺を開いた綽如(しゃくにょ)上人が、杉谷山(現南砺市)の庵から浄土真宗の地方教化に出かけられた。岩黒の地にて休息された際、馬の蹄が突然陥没し、その跡から清水がこんこんと湧き出た。里人が上人に献上した瓜を冷やしたところ、その冷たさに瓜は自然に裂けたとのこと。清水の周辺は大ヒサカキや白コブシ、ヤマツツジ、藪ツバキなど、富山の風土に適した樹木に恵まれている。正に水のあるところに生命が宿る。

僕はツバキが好きだ。特に雪ツバキ。雪の重みで高く成長できない。通年地味に徹するが、開花時には凛として香り無き花を咲かす。コブシも良い。北陸の里山に春の到来を告げる花木といえば、僕はまずコブシを挙げる。樹幹が直立するコブシは雪の重みにも極めて強く、逞しく越冬する。そして早春、雪に負けないくらいの白い花を咲かせる。


瓜裂清水の湧水と3体の石仏
[瓜裂清水の湧水と3体の石仏]
湧水の湧き出ている箇所は、今ではコンクリートで保護され、中を覗くことが困難だ。その背後には不動明王を中心に三体の石仏が坐(いま)す。元来、浄土真宗ではこう説かれている。

「およそ造仏、墓塔等は弥陀の本願にあらざる所行なり」(覚如『改邪鈔』)
目に見える偶像、具象物には価値を見出さないということだ。

またこうも言われている。
「当流には『木造より絵像、絵像より名号』というなり」(蓮如上人御一代記聞書)。
「南無阿弥陀仏」を称名念仏する、つまり「I love AMIDABUTU.」と言い続ける、否、「I love AMIDABUTU.」「Thank you, AMIDABUTU.」と自然に口にしてしまうのが、我が宗派の教えの核心だということだろう。

浄土真宗は現世利益を願う宗派ではない。はたまた現世の苦しみやうっぷんを来世で晴らそうとする宗派でもない。あくまでも現実世界で、認識の歪みを正し、生きていることの有り難さに気付くよう主張する哲学一派だと僕は思う。

砺波土蔵の会会長の尾田武雄氏によれば、石仏信仰は北陸の地に浄土真宗が普及する以前からあった旧仏教や民間信仰の証とのこと。綽如上人伝説と石仏信仰の渾然一体化した瓜裂清水の風景は、理想を求める高尚な精神と、現実に生きる人間味溢れる感情が表裏一体のものであり、それが平和なのだと訴えているようだ。正に瓜裂清水の名水は清濁併せ呑み、湧き出ていた。 

清水の側に立つコブシの花
[清水の側に立つコブシの花]



■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その2:世界は認識でできている)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★世界は認識でできている

ところで、死の瞬間まで走り続けたいと思っている一人のサイクリストにとって、路上で発見したもの、とりわけ道端で人が見逃したもの、自動車が見過ごしたもの、そのような気付かれなかったものの中から、自分が新たに発見した物事や新しいものの見方は正に貴重な財産だ。それは認識及び発想の転換といった高度な知的活動が生み出した知的財産だとも言える。その多くは取るに足りない物事かもしれない。先人が既に気付いていたことかもしれない。しかしそれがたとえ些細な取るに足りないことであったとしても、僕個人の価値観、先入観をひっくりかえしたりしたならば、僕個人にとって貴重な財産だ。マインドセットが変わる、つまり認識が変わるということは世界が全く変わって見えるからだ。

一例を挙げよう。僕は雪国富山県に住んでいる。サイクリストとして住むには、雪国というのはハンディだ。冬の約3ヶ月間は屋外で自転車に乗ることが困難だからだ。太平洋側は冬晴れでガンガン走れるのに、我が家の周りは銀世界。若かりし頃は、そんな雪に負けてたまるかと果敢にロードバイクで走っていた。ダウンヒルではワイヤーが凍り、ボトルを振ると中の水がジャリジャリ鳴った。しかし根性だけでは問題は解決しない。天気に不満をぶつけても勝ち目はない。住むべき環境を変えることを考えたこともある。

そもそも、日本海側に雪が降るメカニズムはとてもユニークである。一般的に高気圧に覆われると天気が良いはずなのに、雪は大陸の高気圧に覆われた気圧配置で降る。冬の北西季節風が三千メートル級の日本アルプスにぶつかり、上昇気流が生じるからだ。しかしこれだけでは雪は降らない。もう一つの条件が日本海だ。冷たいシベリアからの季節風が日本海上を通過する時、湿気をたくさん取り込む。そして露点に達した風は筋上の雲を生み出す。それが富山県の場合、立山連峰にぶつかって急上昇しさらに雪雲が発達するというわけだ。日本海と立山、つまり高気圧圏内で快晴のはずの大空に、海、山、風といった大自然の営みが雪を降らす。

ある冬の日、室内ローラー台上でフィクスドバイク(固定ギアのバイク)に乗りながら、恨めしい雪を眺めていた時、僕はボトルの水を口に含んだ。その時がやって来た。そう、眼から鱗が落ちる瞬間、認識が変わるとき、世界が変わるときが。

常識ながら人間は水がなければ生きていくことができない。陸上生物とはいえ人体の約70パーセントは水で構成されている。ところが地球上にある水はそのほとんどが海水という状態で存在している。海水を飲んで人間は生きていくことができない。その飲めない海水を自然の奇跡は、何と真水に蒸留した。奇跡はそれだけでは留まらない。日本の川は急流で水を長期間貯えておくことが困難だ。それが雪という形で夏場でも高山に留め置いてくれる。つまり富山の自然は、海水を真水化し、且つ一年を通じて常時供給してくれる。しかも無料で。これを奇跡と言わずして何と言えば良いのか。天気が良いからバイクに乗ることができるのではない。生きているからバイクに乗ることができるのだ。

そのように認識が変わると、日常眼にする風景が以前と異なって見えてくる。僕が普段バイクに乗るサイクリングルートにも、名水に指定されているような湧水地が多々あることにも気付き始めた。その一つが富山県南砺市にある「瓜裂清水(うりわりしょうず)」である。

瓜裂清水(うりわりしょうず)map