One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 主権者教育 by T2019/07/24

二人の意見が詰まった家
参議院議員選挙が終了しました。低い投票率が話題となっています。投票に行かないという言わば権利の放棄は、政治に対し委任状を提出する行為とも僕には認識できます。「政治は私にとって難しいことなのでお任せします」という見えない委任状と僕は考えます。何故なら有権者の何パーセントの投票数が無ければ選挙は無効で国会が開設されないという規定は無いからです。そして国会で決められたことに対しては非投票者も従わねばならないからです。

僕の住んでいる町内の全体会議(万蔵総会)には、出席者数と委任状数を合計して有効数に達しないと会議は開くことができないという規定があります。こういう場合、欠席は会議に対する一つのNOメッセージとして成立しますが、先の参院選の場合、たとえ投票率が10%を下回ったとしても選挙は有効です。つまり投票しなかった人は選挙結果に従わなければなりません。結果として非投票行為は委任状提出と等しくなります。

参政権も含め、権利というものにはその権利を放棄する権利も包含されています。放棄したからといって罰せられません。ただし参政権のように、人類史において先人達が築き上げてきた価値ある権利というものは、日本国憲法第12条にもあるように「国民の不断の努力によって保持」しなければ、気が付けば消滅しちゃったということにもなるやもしれませんけど。

僕は、貴重な税金と行政の労働力を投入してまで行う「投票に行きましょう」的広報活動にはギモンです。お客様は神様の如く、投票してくださる人は神様、といった上げ膳据え膳のように感じるからです。私たちはあくまで主権者以上の何者でもありません。

それよりも本当に、本気で投票率を高めたい、特に若者の投票率を高めたいならば、主権者教育というものが重要であると考えます。だからといって主権者教育の授業を、というのではありません。たとえば例を挙げましょう。

僕の住んでいる地方自治体の某中学校には、体育大会に男子のみ全員が上半身裸で行う伝統体操があります。何人かの生徒に尋ねるととても嫌悪している生徒がいます。また日本以外の出身生徒やイスラム教を信仰している生徒もその体操を嫌がっています。

こういう昔から暗黙の了解で行われてきた伝統体操について、生徒と教師が話し合ってみる機会を設定するだけで主権者教育になると思います。それこそ賛成反対の無記名秘密選挙を行ってみてはいかがですか?生徒も教師も同じ一票、平等選挙です。そのくらいの時間はどこかで設定できるでしょう。伝統体操の練習時間をちょっと活用すれば良いことです。

主権者教育とは結果の善悪・正誤を求めるものではありません。結果はどうなるか定かではないけれども、自分たちの意見で何かが変わるかもしれないという期待感と、意見を述べても良いという安心感を保障し体感するのが主権者教育だと思います。

大人がしゃしゃり出て「今どき、裸の体操は野蛮だ!」とクレーマーになるのも主権者教育になりませんし、学校の校則に生徒は為すすべも無いという諦め感も主権者教育とは言えません。

自分の意見と行為が世界を変えるかもしれないという期待感と、意見を述べる行為を保障してくれる安心感、それが主権者教育の核であり、さらに加えて、幸運にも現実に自分の勇気ある行動が何かを変えたという喜び体験があるならば、これに勝る主権者教育は存在しません。

主権者「教育」と付けば何でもかんでも学校任せというのも主権放棄です。主権者の最も基礎的集団は家庭です。家のカーテンを何色にするか家族全員で意見を述べ合う。ゴミ出し順番制に賛成か反対か話し合う。家庭電気料金を情報公開しエアコン設定温度について話し合う。そんなところに何か重要なことがあるような気がします。

身の回りの地道で些細な子供体験を積み重ねること、そうやって主権在民を体感し、その結果、投票率を上げていくべきだと僕は考えます。いつまで経っても上から施しを与えられるだけの民主化はもうそろそろ終わりにしませんか?

写真 : 家作りにおいても、家族内で自由に意見を述べ合うことが重要ですが、それ以上に重要なことは、安心して自由に意見を述べることのできる家族雰囲気だと考えます。