One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ シリーズ一覧(その2)2017/10/22

2017年3月26日以降、One's Way{ワンズウェイ}の里山暮らし日記にアップしたシリーズの一覧です。
さらばもう一度、アイルランド回帰の旅

 [僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]
その1 Summer in 1995
その2 Aran Islands
その3 Killarney
その4 Carrick-on-Suir
その5 OK SPORTS
その6 DANNY BOY
 
 [僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]
その1 Air Mail to Ireland
その2 Summer in 2005
その3 Hill of Tara
その4 Connemara
その5 Carrick-on-Suir Again
その6 The present time in 2013

New Cycling2013.08
その1 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。
その2 世界は認識でできている
その3 名水は清濁併せ呑む
その4 政の砦と聖の道
その5 蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ
その6 重荷を降ろして自由に

New Cycling2013/10/No.602
口絵
その1 昭和浪漫
その2 ヘイセイ・リアリズム
その3 石が、そして山が動く
その4 STONE FREE
その5 石動山曼荼羅

● One's Way Part1 New Cycling 2013.11月号
その1 初めに御言葉
その2 TATEYAMA  神の山
その3 KAKI 薪ストーブ
その4 雨の日はガーデニング
その5-1 立山アルペンヒルクライム2013 -1
その5-2 立山アルペンヒルクライム2013 -2
その5-3 立山アルペンヒルクライム2013 -3
その5-4 立山アルペンヒルクライム2013 -4
その5-5 立山アルペンヒルクライム2013 -5



■ One’s Way Part1(その5-5)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -5


弥陀ヶ原高原「餓鬼の田んぼ」
※ ラムサール条約湿地に認定された弥陀ヶ原高原の「餓鬼の田んぼ」

昨年、弥陀ヶ原はラムサール条約湿地に認定された。その弥陀ヶ原高原の通称「餓鬼の田んぼ」と呼ばれる湿地帯を僕は走った。突然、雪渓を歩いている登山パーティの声援を受けた。この時僕は初めて当たり前のことに気付いた。それは沿道に観客がほとんど存在しないことだ。

当然だった。そこには民家もない。マイカーは禁止で有料バスの始発前のこと。松田優作主演の映画『野獣死すべし』のエンディングシーンで、眠りから醒めると、コンサート会場には自分以外誰もいなかったという場面が、ふと思い浮かんだ。大自然の真っ只中にいるようで、実は強引に造られた意図的な空間に閉じ込められているような気持ちになった。そして誰かに監視されているような、そこはかとない不安を覚えた。

単調に山道をバイクで上っているようで、否、単調だからこそ、頭の中には多種多様な想念が浮かんでは消え、流れ続けていた。すごくドラマティックでスリリングな時間だった。それは心の無意識層が如何に深遠であるかを証明しているようだ。単調かつリズミカルな身体運動は、そんな混沌とした無限の深層をコツコツ掘り起こす作業なのかもしれない。

そして硫黄ガスの匂いが標高を上げるごとにきつくなっていたからであろうか、その無意識という深層が、大地の下にうごめいている巨大なマグマ流動まで繋がっているかのようだった。何処にも逃げることはできない宿命みたいなものを感じた。そう、人間は大地と繋がっており、いつかは大地に帰るべき存在なのだ。

弥陀ヶ原湿地帯、通称「餓鬼の田んぼ」では、決して結実しない田んぼにて、飢えた餓鬼たちは今日も苗を植えているのだろうか。無意味で虚しい毎日を送らざるを得ない餓鬼たち。彼らもまた逃げ場を失った不条理な存在だ。だが、あちらとこちら、どちらの世界が現実でどちらが仮想なのか、誰が断言できようか。正に万事、胡蝶の夢である。

ゴール地点の室堂バスターミナルが見えてきた。僕は自然とペースを落としていた。ゴールが近くなってラストスパートではなく、逆にペースダウンしたレースは初めてだった。それはこの「天空ロード」上に一秒でも長く居たいという気持ちの現れだった。

今回の僕の目的はゴールの室堂に辿り着くことではない。「天空ロード」という道を走ることだったのだ。点ではなく線が目的だった。線を走る限り、線を生きる限り、虚しさに苛まれることはない。分割無限の瞬間全てに意味を感じられるからだ。しかし、哀しいかな、時間の不可逆性。後戻りできない歴史同様、必ずゴールはやって来る。

面白い顔をした御当地ユルキャラ着ぐるみが不気味に待ち構えているゴールラインを通過した。ゴール直後、大会ボランティアの方に月桂樹の冠をかけてもらった。

「えっ?かけてもらった?何処に??」

そうなんです。本来頭に被せてもらう月桂樹の冠なのに、ヘルメットを被っているから無理だったのだ。ヘルメットを脱ぐ暇もなく、ハンドルに掛けられてしまった。くどいようだがやっぱり思った。

「だから、ヒルクライムにヘルメットは被りたくないんだよな!」

室堂のゴール地点にて
※ 室堂のゴール地点にて。この写真は僕より早く完走された某サイクリストに撮影してもらった

(つづく)

■ One’s Way Part1(その5-4)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -4


遠くに富山平野が見える
※ 第一関門の弘法バス停を通過したあたりから、視界が開ける。遠くに富山平野が見えた

第一関門の弘法バス停を制限時間残り10分で無事通過した。弘法バス停には思い出がある。高校2年生のとき、友人と2人で自転車で立山の麓まで走り、そこから歩いて八郎坂(日本一の落差を誇る称名滝の傍らを上る登山道)を上り、このバス停まで辿り着いた。その日自転車で帰宅した時は日没後だった。

弘法バス停を過ぎると、背丈の高い木々はめっきり少なくなり視界が開けてきた。遠くにかすんだ富山平野が見えた。遥か遠くまで来たと思っていたのに。時間の尺度と空間の距離感が歪んで見えた。あまりにも自然が大きすぎたため、僕の認識力はオーバーフローしてしまい、かえって手を伸ばせば立山頂上に手が届くかの様にも見えた。

遠くに前を行くサイクリストが見えた。でも僕とどのくらいの距離が離れているのか定かではなかった。そのサイクリストは雪の壁に吸い込まれていく小人(こびと)のようにも見えた。僕はたった一人、世界に取り残されつつあった。道路脇にも雪の壁があって、雪解け水が時々アスファルトに縞模様を作っていた。静かだった。


汚れた雪の壁
※ 雪の壁は高原バスの排気ガスで汚れていた。前方を行くサイクリストと遠方の雄山頂上が見える。距離感が歪んで不明瞭な世界だった

時々ヘリコプターの音がしたが、その音は今いる自分の世界とは別の世界が同時進行していて、そのもう一つの世界から届く残響音のようだった。見えない壁の外から聞こえてくるようだった。何故か突然、僕の頭の中にモーリス・ユトリロの絵が浮かんできた。正確に言えば、ユトリロが描くであろう絵だった。僕はユトリロの絵には詳しくない。細部は定かではなかった。漆喰壁の建物が並ぶ露地を道が一本走っている絵だった。その絵はあらゆる音を吸収し尽くし、そして孤独だった。正確に言えば大いなる力の前にたった一人孤独だった。大自然の山中でパリの街中の絵?リアリティがあるようで無いようだった。指の冷たさが辛うじて現実に僕を繋ぎ止めていてくれた。

そんな指で僕はマイヨーのポケットを探り、真っ白なニコンのデジタルカメラを取り出した。実はレース中、立ち止まって写真撮影することは禁止だった。その理由は、危険だからというもの。だから僕は立ち止まらずに走りながら撮影した。こちらの方が危険かもしれないと思った。

ポケットにカメラを仕舞おうとしたときに僕はカメラを落とした。仕方なく天空ロードのアスファルト上に足を下ろし、逆走して道を下りカメラを拾った。このとき生まれて初めて天空ロードをバイクで下った。ほんのわずかの距離だったけれど。


■ One’s Way Part1(その5-3)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -3


スタート直前
※ スタート直前。20名ごとに30秒間隔でスタートした。

5時30分スタート。

ゼッケン順で20人ごと30秒間隔でスタートした。僕は3グループ目のスタートだった。故に5時31分スタート。第一関門通過時刻は全員同じで6時20分。よって僕は49分以内で第一関門を通過しなければならない。

スタート直後、トゥークリップに一発でシューズが入った。今日はついている。これでゴールまでペダルから足を外すことがないだろうと僕は思った。(後述するが、一度僕は地に足を付けることになる。)

レース序盤、ブナや立山スギなどの樹林帯を走る。アスファルトは想像以上にゴツゴツしていて路面抵抗と振動を感じた。そして昨日の雨の名残か、所々濡れていた。野鳥の鳴き声がこだました。北東の方角から日の出の木漏れ日が差してきた。ゴキゲンな一日になりそうだ。

そして驚いたことに硫黄ガスの匂いが微かに漂っていた。立山は火山である。ここ最近の噴火は記録されていないが、地下では確実にマグマが息づいている。既に標高1000メートル近くの場所をバイクで走っていた。酸素は下界よりも幾分薄いはずだ。硫黄ガスも含め身体に何が起こるかわからない。

僕はウォームアップを兼ねて7割くらいのペースで上った。ギアは39T ×19T ~23Tだった。

ウール100パーセントのマイヨー(自転車選手用の運動着)は山岳サイクリングには最強だろう。洗濯や防虫に注意して大切に使ってきたビットーレ・ジャンニのトリコロール・マイヨーは、20年以上前に東京東上野の横尾双輪館で購入したもの。当然、胸元のみのファスナーである。だからこそ、ヘルメットを被りたくなかった。ウールマイヨーにヘルメットはミスマッチだ。それに元来、神は人間の頭上に神以外を創造しなかったはずだ。せいぜいレーサーキャップ一つというのがシンプルで良い。

サングラスはオークリーのプロMフレームの度付きレンズ。僕はかなりの近視で現在のオークリーは僕の度数レンズを作ってくれない。1999年、秋、このプロMフレームを購入した時は幸いにも作ってくれた。一度フレームを交換して現在に至っている。

最近のサイクリストの多くがスポーツサングラスを着用している。僕も大賛成だ。目は保護する対象であって鍛える対象ではない。スポーツサングラスというよりスポーツゴーグルだ。でもサングラスはヘルメットと違って、着用は強制されない。



■ One’s Way Part1(その5-2)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -2

2013年6月22日(土)、レース前日。天気は曇り時々雨。立山山麓、吉峰グリーンパークでは、レース受付及びバイク搬送作業が行われていた。バイクは丁寧に梱包され、トラックでスタート地点の美女平に輸送されるのだ。地元富山県業者であるトナミ運輸の丁寧なバイク梱包には驚いた。この場をお借りして感謝を述べたい。

開会セレモニーでは大会安全講習会が、参加者全員に義務付けされており、それを受講。その後、バスで宿泊先の立山国際ホテルへ運ばれた。

ホテル到着後のスケジュールは食事時間が設定されている以外は特に無し。部屋は5人の相部屋だった。

2013年6月23日(日)、レース当日。天気は晴れ。朝は3時に起床した。マッサージオイルを脚に塗り、着替えをした。朝食はレース後の午前10時に予定されており、バナナを食べて3時50分バスに乗り込んだ。

4時45分スタート地点の美女平に到着。そこにはバイクが既に並べてあり、自分のバイクを受け取った。コースは封鎖されておりアップする場所はほとんど無い。レース序盤でウォーミングアップせよ、というわけである。それも上り坂で。関門通過時間を考えながら。

5時20分。雄山神社神主による大会安全祈願。此処からは神の聖域に入る。僕はヘルメットとキャップを脱いだ。本当はそのままヘルメット無しで走りたかったのだけれど、昨今のレースではヘルメット着用が義務付けされている。

話は逸れるが、28年前の1986年、第一回乗鞍マウンテンヒルクライムレースを僕は走った経験がある。その時は小雨の降る中、赤いヘッドバンドのみで走り切った記憶がある。当時はフランス人プロレーサーであるローラン・フィニョンのヘッドバンドスタイルに憧れていた。彼は誇り高きパリジャンだった。自分という芯があった。

最近の乗鞍ヒルクライムは抽選のある4000人規模の大会に成長したが、第一回大会は300名の出走だった。上りのみのヒルクライムでヘルメットを着用していた選手はほとんどいなかった。欧州プロロードレース界でヘルメット着用が本格化したのは、1995年ツール・ド・フランスで、モトローラチームのファビオ・カサルテッリ選手が下りで落車、頭部を強打し死亡した事件後である。それ以前は、ヘルメット着用に抗議して、選手がレースをスタートしなかったこともあった。

フランス人は1789年フランス革命以来、国家権力のプライベート介入には極めて神経質な国民であると聞いたことがある。学校から出される子供の宿題でさえも拒否する傾向があるらしい。確かに何処までが個人の責任の領域で、何処までが公的な責任の領域なのか考えてしまう。ヘルメット着用について、着用した方が着用しないよりもリスクが少ないことは明らかだ。また、着用しないと出走できないのも事実。でも規則に盲従というのも如何なことか。しかも上りのみのヒルクライムで。安全祈願が終わって、とりあえず僕はヘルメットを再び被った。この「とりあえず」というのが曲者なんだよね。


スタート前
※ 立山アルペンヒルクライム、スタート前。美女平の伝説、美女杉の前で

■ One’s Way Part1(その5-1)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -1

2013年6月23日。北陸地方が梅雨入りして間もなく、その日は梅雨の中休みで晴天だった。本当に良かった。もし雨が降っていたら僕はサイクリングしない。

かつて立山の女神は、中学生だった僕を魅了し、僕を現在まで導いてくれた。中学2年生のとき、一人でバス乗車した美女平から室動までの道、いわゆる「天空ロード(高原バス有料道路)」を、この日僕は初めてロードバイクで走るのだ。

今年初めて開催された立山アルペンヒルクライム2013。普段「天空ロード」はマイカーは無論のこと、自転車は通行できない。大会を企画してくださった関係各位に一人のサイクリストとして心から感謝したい。行政や警察との折衝は大変な苦労であったと推察する。その証拠に、大会スケジュールが極めて時間的に厳しいものであった。

バスの始発時刻午前8時までには「天空ロード」上に、選手、スタッフ、標識等全て撤去して、有料道路の営業に支障をきたしてはいけない。「天空ロード」は富山県観光のドル箱なのである。故にレースのスタート時間が午前5時30分。そこから逆算すると、全員宿泊を指定された立山国際ホテルをバスで出発するのが午前4時であった。朝が早いことは仕方が無い。そこは夏山である。日の出と共に活動し始めるのが山人のスタイルであり、山のルールだ。最も厳しい条件だったのは、レース途中の関門通過の制限時間だった。

標高977メートルの美女平から標高2450メートルの室堂までの22.3キロのコース。平均勾配約6.6%の上り坂である。実際に走ってみて分かったことであるが、コースには平坦及び下りは1ミリたりとも存在しなかった。そんなコースで最初の関門が、スタートから9.9キロ地点の弘法バス停(標高1620m)。そこをスタート後50分以内に通過しなくてはいけない。1キロ5分、平均時速12キロ以上のペースをキープしなければならないのだ。しかも酸素の薄い高地で。

続いて第二関門は弥陀ヶ原バス停。弘法バス停から4.8キロ地点の第二関門を、第一関門通過後25分以内に通過しなければならない。第一関門をクリアした後もペースを落とすことは許されない。このタイムリミットは実際に厳しかったようで、レース結果では97名出走中、完走率がおよそ8割であった。ただし第二関門を通過できれば、残り8キロ弱のすばらしい景観の中、1時間かけてゆっくり(?)レースを堪能することができる。

バイク梱包作業
※ 立山アルペンヒルクライム前日、トナミ運輸による丁寧なバイク梱包作業

■ One’s Way Part1(その4)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 雨の日はガーデニング

家のドアを開けたその瞬間から、サイクリングに適した道が続く。これがわが家One’s Wayのアピール・ポイントだ。僕が所属するサイクリングクラブTEAM ROMANのメンバーも時々、練習で我が家の前を通ることがある。

「ドアを開けた瞬間からサイクリングロード」否、僕たち夫婦はさらに極めたいと思った。それは「わが家One’s Way自身が森の中の小径」になること。家という点が道という線に含まれてしまうことを。出口無しの箱のような家には住みたくない。里山の風景に溶け込んだ色とりどりの花木の中を通る小径、そんな小径に寄り添った、風通しの良い東屋のような家に住みたいと思った。
ここまで辿り着いて僕はふと考え始めた。サイクリングとガーデニング、どちらを選択すればよいのだろうかと。サイクリングもガーデニングも共にアウトドア。そして明るい日中が活動時間だ。暗い夜に行うのは不可能ではないにしても、極めて無理がある。お互い時間と日光の争奪戦になっていった。そこで僕は一つのルールを決めた。

「雨の日はガーデニング。雨の日には、原則としてサイクリングしない。」


菜園を営む
※ 薪ストーブから作られた灰を撒いて、菜園を営む。それは明日を走る糧となる。

スチールでできたバイクに、雨は決して恵みの雨にはならない。しかし庭や菜園には雨が必要だ。正に慈雨(じう)である。雨の日は、花や樹木の気持ちになって、恵みの雨を讃えながら庭仕事をするようになった。だからといって晴れた日にガーデニングをしないとは言っていない。夜明けから日没までサイクリングすることなんてめったにない。走ってきてから庭仕事をすれば良いのだ。あくまで雨の日はバイクに乗らないというルールだ。

だから僕のバイクにはマッドガードは必要ない(そもそもロードバイクにもピストバイクにもマッドガードは最初から存在しない)。そして革サドル、皮バーテープ、皮製ツールバックを装備していても安心。


■ One’s Way Part1(その3)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ KAKI 薪ストーブ


薪小屋と自転車
※ 薪小屋と自転車。共に僕の大切なライフワークである。


サイクリングをするようになってからも自ずと富山県は無論、信州や飛騨の山岳地帯をフィールドとした。ロードバイクに乗るようになってからも、山道でヒルクライムすることが多かった。

僕がOne’s Wayという御言葉に導かれていった先に、KAKIがあった。KAKIとは立山山麓の粟巣野(あわすの)にある手作り家具メーカーである。そこには大きな薪ストーブがあった。

1986年、晩秋。KAKIが主催する自転車のヒルクライムレースに出場した。粟巣野に初雪が降った日だった。レース後、KAKIのショールームで初めて本物の薪ストーブに出会った。そこには本物の火が揺らめいていた。正直言って当時は薪ストーブを見ても「ふーん」で終わった。

その後、頻繁にバイク・トレーニングとしてKAKIを訪れるようになった。作業場にあった蒸気機関車のような大型薪ストーブの横でコーヒーを入れてもらった。僕は知らず知らずのうちに薪ストーブに導かれていったわけだ。薪ストーブに道が繋がった。

僕が生まれた家は平野部の街中にあった。結婚してから10年後、新居を構えた時、僕たちが住処として選んだ場所が、山の麓、懐深き里山の中であったことは、自然の成り行きかもしれない。

わが家One’s Wayを建てるための条件、それは「薪ストーブが絵になる場所」というものだった。薪ストーブは焚こうと思えば街中でも可能である。でも、絵になる場所となると考えてしまう。

「絵になる」とはしっくりきている、自然体である、無理が感じられないという意味だ。それは、チェーンソーの爆音、切り出された原木の搬入、薪山を積んでおくスペース、薪ストーブから出る煙等々、隣人との距離感と地域性などに無理が感じられず、お互い平和的に過すことができるといった条件のことでもある。

そして薪ストーブからは必ず灰が生まれる。僕たちは花咲か爺さんの如く、灰を撒いて菜園を営みたいと思った。少しずつ土地を広げていった。花や樹木も植えるようになっていった。僕たちはいつしかガーデナーになっていた。ロードバイクで峠道を走っていたサイクリストが、いつの間にか跪いて草をむしっていた。僕は知った。ガーデナーはサイクリストよりも大地に近いことを。ともあれ、そんな所まで道が繋がるとは。何と偶発的・運命的なOne’s Way!



■ One’s Way Part1(その2)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ TATEYAMA  神の山

僕の住む富山県は、海にも山にも恵まれている。豊富なサイクリングコースがある中で、僕はどちらかというと海岸線の道よりは山道を選ぶことが多い。それは交通量の多い街中を通らなくてもよいことにもなる。太平洋側と異なり日本海側は南に山岳地帯を控えている。よって南下するのではなく、南上する。でも山を選ぶ理由は交通量の少なさだけではない。

中学1年生の夏、母親が暴風雨にもかかわらず、北アルプスの霊峰、立山連峰の雄山頂上まで僕を連れて行ってくれた。標高3003メートルの頂上から標高2450メートルの室堂まで下山できた時、僕は自動販売機で500円のカップラーメンを食べた。

このとき僕は思った。美味しさを万人に説明できる正確な客観的物差しは存在しないと。あるのは自分という物差しだと。その時食べたカップラーメンは、どんな高級レストランの料理よりも美味しいと思った。といっても、当時、僕は高級レストランで食事した経験は皆無だったけれど。

中学2年生の夏、今度は雄山頂上に一人で行った。叔父から譲り受けた中古の皮製登山靴とニッカーボッカーズをはいて。ザックには父親から譲り受けたYASHICAの重たい一眼レフカメラを入れて登った。このカメラは父親が二十歳の記念に購入したそうだ。大人になった証だ。

雲一つ無い快晴の一日だった。完全に山の虜になって帰ってきた。それは僕のOne’s Wayが、神の山、立山に繋がった記念すべき一日でもあった。



■ One’s Way Part1(その1)2017/10/22

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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One's Way
カット:わが家One's Wayから車の通る公道に沿って、雑木並木の小径を整備中。小径は自転車および歩行者はもちろん、鳥や動物たちの道でもある。


■ 初めに御言葉

わが家の屋号はOne’s Way。日本語に訳すと「それぞれの道」といった感じだ。One’s Wayという言葉は、僕の妻が登録商標として所有している言葉だ。その「言の葉」を屋号にも使わせてもらった。一般的なビジネスモデルでは、ビジネスの具体的な形式・内容がある程度定まってから、それに名称を付与するであろう。しかし妻は違った。

「初めに御言葉があった。御言葉は神と共にあった。全てのものは御言葉によってできた。」
(ヨハネによる福音書第1章)

初めにOne’s Wayという言葉ができた。言葉ができたというよりも、妻の生まれるずっと以前からその言葉は存在していた。ある日、One’s Wayという言葉の存在に気付いたというか、あたかも深い心の無意識の層から引き出したかのように認識した方がよいかもしれない。

One’s Wayと発声してみるととても響きがよく、イメージが膨らみ、誰もが覚えやすい言葉だった。遥か太古の時代に繋がっているようだった。お気に入りの言葉になった。ビジネスだけに限らず、毎日の暮らしも含め、全ての日常が展開していけば良いと思った。その言葉を口ずさみ、流れながら、自然と導かれるものに従って生きていけば良いと思った。


初めに御言葉があった。御言葉は神と共にあった。神は山でもあった。御言葉は山と共にあった。ある人々が山に魅せられた。彼らは山に育てられた。山によってそれぞれの道ができた。その道を奇麗な道にしたいと思った。それは神を讃えることであると思った。樹木や花々を植えた。人々は樹木や花々が育つのを助けた。水の流れを整えた。橋を架けた。作業と休憩のための小屋を建てた。虫や鳥や動物たちがやって来てくれた。虫や鳥や動物たちも神であった。毎日が楽しいピクニックになった。毎日が道と共にあった。それぞれの道と共に。そんな道を、今日も僕は大好きな自転車で走ることができるのだ。