One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ STONE FREE-その5:石動山曼荼羅-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆石動山曼荼羅

石動山山頂
石動山の山頂を大御前(おおごぜん)と呼ぶ。標高565メートル

石動山は、時の政治的力関係の中で幾度となく栄枯盛衰を繰り返してきた。室町南北朝の対立から越中守護普門利清によって全山焼き討ちにされた。それでも石動山は復活した。天平寺と呼ばれる北陸の有力寺院として。しかし約250年後には、本能寺の変をきっかけとして石動山合戦が勃発した。後に加賀国百万石の基礎を築いた前田利長は、石動山の院坊に悉く火を放ち、一宇残らず灰と化した。仁王門の左右には石動山側千六十人もの首が晒されたという。この石動山合戦の際、僧兵般若院快存の奮闘が特筆される。彼は大剛の者で全身矢を受け討ち死にした。正に今弁慶!


石動山の原生ブナ林
石動山の原生ブナ林。石動山が禁断の聖地であることが、ブナ林を乱開発から守った

江戸時代になり、それでも衆徒達は再興を試み復活する。あたかも築いては崩し、また築いては崩す曼荼羅の世界のように。何かを完成させることが目的ではない。また反対に破壊することが目的でもない。生滅循環すること、終着点など存在せず、何処かに執着することなく繰り返すこと、そのプロセス自身の中に生の正体が宿っている、そのように僕には思えてくる。繰り返すためのエネルギーそのものが、生の正体であり、生きている証拠なのだ。


仁王門跡
仁王門跡

明治時代になって、神仏分離令が発せられるや否や、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の中で石動山は瓦解する。現在は数軒の住民が住まう超過疎地である。しかし石動山の史跡発掘や重要建築物の再建及び整備・保存が、少しづつ進行中である。生滅を繰り返す石動山曼荼羅の世界に、僕も繰り返し繰り返し、今後もバイクで上ってくるであろう。自分で定めた日課と行動規範に従って。

同じような繰り返しではあるが、少しずつ僕自身は変化し、石動山の史跡発掘や整備も進行して行くに違いない。それでいい。それでいいのだ。無常の虚無感を越えたところに、巨岩以上の硬さと強さが待っていると僕は感じる。最後にカミュ作『シーシュポスの神話』から引用して中締めとする。

「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」


▷追記
タイトル及び小題の「STONE FREE」は、ジミ・ヘンドリックスの曲名から引用しました。


▷参考文献
『国指定史跡 石動山』石川県鹿島町発行・2004
『シーシュポスの神話』A.カミュ著・清水徹訳 新潮文庫・1969

(了)

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お読みいただきありがとうございました。

■ STONE FREE-その4:STONE FREE-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆STONE FREE

石動山への上り途中
石動山への上り途中、森の中を走る

聡明なシーシュポスは、理由は諸説あるが神々によって怖ろしい刑罰を課せられた。それは休みなく巨岩をころがして、タルタロス(地獄)にある山の頂まで運び上げるというものだった。刑罰はそこで終わりではない。本当の刑罰はここからだ。巨岩が山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さで転がり落ちてしまうのだ。かくしてシーシュポスは無益な労働を永遠に繰り返すことになった。シーシュポスの末路を恥じた妻メロペーは、姉妹から離れ姿を隠したという。これは紀元前2000年の終わり頃、おうし座のプレアデス星団の星が一つ見えなくなった事実を伝えているという。天から堕ちてきた巨石「動字石」と山を上り下りする山伏「いするぎ法師」。これが僕の頭の中でシーシュポスの神話と共鳴する。


動字石
動字石は森の中に鎮座されている

僕が石動山にバイクで上るときは、必ずロジェーリの黒いカスクをかぶって上ることにしている。それは山伏の兜巾(ときん)に似ていないわけでもない。ようやく山頂近くの「動字石」のあるところまで上り詰めると、そこは見晴らしの良い開けた場所では全然ない。「動字石」のある場所は樹林の中にあり、眺望は全く良くない。そして蚊も多い。何の為に苦労して上ってきたのか、そこには明確な目的など見当たらない。僕はまた山の麓へと下って行くしかない。そして後日また、性懲りもなくエッチラ上ってくるのだ。

確かにそこには明確な目的や理由などは僕には分からない。「そこに山があるから」と言い訳などできない。しかしその代わりに明確な事実があることに僕は気付く。それは、山に上って来たのは誰に強制されたわけでもない、自分自身の自由意志で上って来たという紛れもない事実だ。自分で自分にバイクで山を上る行為を課したのだ。そして山を下るのも自由意志で下るのだ。重力に引っ張られて堕ちていくのではなく(確かに下りは重力のおかげで上りよりも楽ではあるけれど)、自らの意思で日常の下界へ下っていたという紛れもない事実がそこにある。


伊須流伎比古神社
伊須流伎比古神社

それでは、シーシュポスの場合はどうであろうか。シーシュポスの巨岩自体は重力に引っ張られ、山の麓まで落ちていったが、肝心のシーシュポスはどうだろうか。刑罰を課されているという条件はあるが、作家カミュは『シーシュポスの神話』の中でこう述べている。

「彼は不条理な英雄なのである。神々に対する彼の侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責苦を彼に招いたのである。」

シーシュポスは、言語に絶する責苦を自ら招いたのである。・・・

「神々に対する侮蔑」とはどういうことか。この刑罰の肝は、受刑者が刑罰を嫌悪することにある。嫌悪感・虚無感を意識せざるをえない行為をシーシュポスに課すことである。しかしここで次のように仮定してみよう。もし仮にシーシュポスが自らの意思で、自ら進んで、落ちていった巨岩の所まで山を下り、自らの意思で巨岩を山頂まで運んでいたとしたら。・・・これでは刑罰にはならない。沈黙の中、シーシュポスは心の中で神々を哄笑しているだろう。彼は勝利者といえる。彼は運命を仕方のないものと渋々受け入れたのではなく、運命を能動的に乗り越えていることになるだろう。

「死への憎悪」とはどういうことか。人間は生まれた瞬間から死に近づいていく。生きている時の努力や成長は最終的に死によって灰と化す。そんな虚無感に無意識な時はよい。だがふとした瞬間、意識に目覚める。「努力したって、どうせ死ぬんだから」と。その瞬間に日常の繰り返しが虚しくなる。これこそ神々がシーシュポスに課そうとした刑罰だ。不幸は意識に目覚めた時に生じる。しかし「死への憎悪」とは、そんな虚しさを強要する死に対し、一歩も退かず抵抗し続けることだ。どうせいつかは死ぬんだからと、虚しさの中で努力や成長を放棄するのではなく、カミュの言葉を借りれば「死と和解することなく死ぬ」ように、最後まで努力し成長しようとすることだ。

「生への情熱」とはどういうことか。人間は生まれてきたのだ。生まされたのだ。常に受動態として。確かにそうかもしれない。シーシュポスが刑罰を受動的に課せられたのと同様に。じゃあ、今生きている自分、今存在している自分は何なのか。シーシュポスに課された刑罰のように、神々によって強制されて今を生きているのか。惰性で生きているのか。死ぬのが怖いからとりあえず生きているのか。僕はそんな生は真っ平だ御免だ。

僕は能動的に、生きたいから生きるという人間でありたいと願う。確かに最終的に死を避けることはできない。それなのに死の対極である生を生きる。これこそカミュのいう不条理だ。「世界は不条理である」それが真理だ。不条理が真理ならば、その不条理に添うのが良かろう。繰り返しの徒労に終わる日常の労苦を、自らの自由意志で行うのだ。誰かによる強制ではなく自由意志で行為するのだ。そこに本当の意味での幸福感があるように思う。シーシュポスの喜悦のように。

石動山の山頂へ向かう道
石動山の山頂へ向かう道。石段に歴史が宿る

■ STONE FREE-その3:石が、そして山が動く-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。
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◆石が、そして山が動く
僕が好んで走るサイクリングコースの一つに、里山の我が家をスタートして北上、富山湾を目指し、寒ブリで有名な氷見漁港から石川県境を越え、石動山(せきどうさん)に上るコースがある。往復で約100キロメートルのコースだ。

2013年5月8日、僕の住んでいる富山県は130歳の誕生日を迎えた。明治16年の同日、隣の石川県から独立した。石川県といえばかつて加賀百万石と呼ばれた地域。いわば大国である。そこから自治を獲得したのだ。

富山の地は海抜ゼロメートルの浜辺から3000メートル級の山岳地帯まで、さほど大きくない面積の中にコンパクトに納まっている。また世界的にも稀な豪雪地帯である。一年を通じて雪解け水の流れる一級河川は、急流となり、河川の数も多い。治水整備を急務とする富山側の人々は石川県からの独立運動を起し、遂に実現したのだ。最近は市町村合併や道州制導入など、長い物に巻かれるのが流行りのようだけど…。僕は我が富山県の誕生日を迎え、明治維新といった近代国家建設期の人々が抱いていた独立自尊の気概に対し、敬意の念を新たにした。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

時代を古代にさかのぼってみよう。超大国である中国の属州であり、中国側から「倭(わ)」と呼ばれていた列島の人々が、自らの国名を「日本」と宣言し、法に基づく国家形成を始めたのは7世紀から8世紀にかけての時代である。倭とは、「野蛮な」といった意味である。我々の先祖は野蛮で未開な民族から、堂々とお天道様を拝むことができる「日ノ本」民族になることを目指したのである。小さくても堂々毅然と世界に立ち向かうこと。この頃、わが国ははじめて自我に目覚めたと言えよう。

そして越中国(現富山県)にも国府が設置された。設置された場所は現在の富山県高岡市伏木。この辺りからサイクリングはアップを終え、本腰が入ってくる。万葉集の編者でも有名な大伴家持は、ここに国司として5年間赴任した。

彼は衰運に向かいつつあった名門大伴家の首長として苦難を一身に背負わねばならなかった。都を落ちて僻地の越中国に赴任させられた。国府があったとされる場所には、現在石碑が建てられている。そこは現在の浄土真宗勝興寺境内である。現在、勝興寺は修復中で写真をお見せできないのが残念。


如意の渡し船着場跡
「如意の渡し(にょいのわたし)」船着場跡

時代が中世に入る。国府跡の近くに、「如意の渡し(にょいのわたし)」があった。僕はそこに寄り道する。「如意の渡し」とは、小矢部川を対岸に渡るための渡し舟のこと。歴史は古く『義経記』に登場する。能の演目『安宅』で弁慶が主君義経を叩き、一行の危機を救った場面は、この「如意の渡し」に乗船する時のエピソードを基に創作されている。源義経にしても大伴家持と同様、中央政争に翻弄され、都を落ちていった英雄である。如意の渡しは、2009年に廃舟になった。小矢部川に近代的な橋が架かったためだ。

雨晴海岸
雨晴海岸

義経雨晴らしの岩
義経岩

ルートはここから海岸線に入る。日本海が広がる。「義経岩」辺りは、運が良ければ富山湾越しに立山連峰が見えるという絶好のスポットだ。海岸線のすぐ側をローカルなディーゼル機動のJR氷見線がゆっくりと走る。奇岩「義経岩」は、先述「如意の渡し」も含め、源義経が兄源頼朝に追われ、奥州平泉へ逃亡した歴史的事実に関連した伝説である。

実際、義経が通った逃亡ルートは正確には分かっていない。何処何処に義経が到着したなどといった公式の記録がないためである。記録など残っていれば、義経はとっくに捕まっていたであろう。この国の野に生きる無名の人々が、沈黙という行為で義経逃亡を助けた。大きな中央権力に抵抗して。記録が残されていないことがその確たる歴史的証拠である。そして伝説だけが残された。

「義経岩」伝説とは、この地を義経一行が通った時、にわか雨に遭い、この岩の穴の中で雨宿りしたというもの。すると雨が止んだという逸話をもつ巨岩である。「義経雨晴らしの岩」と呼ばれたことから、この地域に「雨晴(あまはらし)」という地名が付けられた。サイクリストにとって何と有り難い地名であるか。

義経一行は、能『安宅』の演出に見られるように修験道山伏の一団に擬して奥州平泉を目指した。それはかの武蔵坊弁慶のモデルとなった俊章という名の悪僧が比叡山無動寺の修験者であったことに由来するのか。はたまた旅そのものが修験の道なのか。TRAVELの本来の意味は「骨折って働く、苦労して旅をする」という意味だそうだ。旅も人生もサイクリングも修行なのかもしれない。

義経一行が北陸ルートを選択して奥州平泉を目指したという説の大きな根拠として、延暦寺と北陸の関係がある。霊山白山(石川県)における山岳修験は山門延暦寺の影響下にあり多くの僧兵を抱えていた。義経逃亡を手助けした実在の修験僧俊章が白山信仰の庇護の下、義経を奥州平泉に導いたであろうことは推察しやすい。また能登半島には白山とは別の大きな修験の場が存在した。それが石動山(石川県鹿島町)である。

石動山への上り途中
石動山への上り途中、先ほど走ってきた富山湾を望む

石動山は能登半島の基部にある標高565メートルの山であり、古代から江戸時代にかけて、加賀・能登・越中の修験道の拠点として栄えた場所である。石動山は正に石が動く山である。古い記録によれば、森羅万象の生命をつかさどる三つの石のうち、「動字石(どうじせき)」が天から堕ちて山が揺れ動いたとある。また、「天より星落ちて石と成り」ともある。

この「動字石」と呼ばれる石が石動山山頂近くに鎮座しておられるが、どうやら隕石ではないらしく、安山岩だそうだ。石動山は礫岩層から成り、もろく崩落が著しい。地滑りや崖崩れ、巨石までもが動く山である。石動山が古くは「ゆするぎさん」とも「いするぎさん」とも呼ばれていた理由がそこにある。

人々はそんな大いなる自然の力に畏敬の念を抱いてきた。そして荒ぶる男神「石動彦神(いするぎひこのかみ)」を奉り。「動字石」近くに伊須流伎比古神社(いするぎひこじんじゃ)を建てた。その後、この古い石動山信仰と仏教が結びつき神仏習合が進んだ。そして呪力、神通力を身に付けんがため、厳しい山林修行を求めて多くの修験者らが石動山に集まってきた。

彼ら「いするぎ法師」は神官でも僧侶でもなく、修験者山伏であった。結果、多くの院坊が出現し、その一帯が天平寺と呼ばれるようになった。

天から堕ちてきたとされる巨石と厳しい修行に打ち込む山伏との関係から、僕はある神話を連想してしまう。それはギリシャ神話『シーシュポスの神話』である。


■ STONE FREE-その2:ヘイセイ・リアリズム-2017/09/23


今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。
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◆ヘイセイ・リアリズム

あの新聞記事から約30年の歳月が流れた。僕は依然としてバイクに乗り続けている。バイクで走った道のりを積算すれば、あの宗茂選手に似たお兄さんが日本一周で走った距離を優に越えているだろう。でも僕のバイクライフは、日本一周や世界一周に旅立つような、男の浪漫に満ち溢れたカッコ良いものでもない。

ところで、この国では通常「バイク」といえばモーターバイクのことと認識される。「省略、短縮しろよ。そうすればマジョリティの仲間入りを許可してやるぜ。」といった感じだ。同様に最近は、メール(=郵便)といえばEメールのことと成りつつある。「ショートカットしろよ。その方が楽チンで時間も節約できるじゃないか。」ナルホド、それもそうだ。ガソリンや電気で動くことを当たり前と認識すること、人力以外の動力源に頼ることが当然であるくらいに無意識化すること、そんな凶暴・肥大化した自我を受容すればいいじゃないか。何故、ちっぽけなバイク(=自転車)に乗り続けているのか?冒険家として名を馳せる訳でもないのに…。

結局のところ僕は、その意味を探し続けながら乗り続けているのかも知れない。逆に何故、時間を節約しなければならないのか?と問われても、それはそれで答えられないんだけど…。

僕にとってバイクはある意味、依存症みたいなものだ。全然カッコ良くないよね。強迫的でバイクに乗ることができなかったら不快でイライラしてくる。そして走れば走るほど強迫性が増す。だからバイクに乗る自分を正当化するために、僕はその意味を、こじつけでも屁理屈でもいいから探し求めているのかもしれない。

バイクに乗ることが生きることの必要条件ではないことは十重承知している。お金も時間も労力もかかる。中学三年生のときに決め付けた「自転車はコストパフォーマンスに優れている」という先入観は、今では??である。競輪選手のように、バイクに乗ることがプロフェッショナルな職業でもない限り、生活の糧にはならない。

「ショートカットしろよ。その方が楽チンで時間も節約できるじゃないか。」そんな囁きに、僕は反論することができない。

でも一方でこう言えるのも事実だ。僕はバイクに乗ることができている時、生きることがとても鮮やかに見え、満たされた感覚に襲われる。と同時に気分がピシッと引き締まり、日常の細部が意識的になり、時間の感覚がクリアになる。つまりこういうことだ。

「毎日を丁寧に暮らすことができるようになる。たとえ現実というものに夢や希望が消え失せていると仮定したとしても。」

バイクに乗れている限り、僕は何とかボチボチやっていけるような気がする。依存症のように深みにはまっていく感覚は否定できない。しかし大事な一線を越え、落ちに落ちていくことだけは回避できるような、そんな直感的な手応えがバイクにはある。そんな意味で僕にとってバイクは『ライ麦畑でつかまえて』くれる存在なのかもしれない。ちょっと大げさかな?かなり大げさだ。


僕のバイクライフは、あの宗茂選手に似たお兄さんのように、バイクに荷物を一杯積んで、遠い世界を旅するツーリングスタイルではない。生活の拠点である家族と我が家を中心としたサイクリングライフである。

僕は就職し、結婚し、小さな家を構え、紆余曲折はあったものの、ボチボチ日常を生きてきて、現在もボチボチ現実を生きている。僕はバイクで世界一周を目指すことはないだろうし、ヨーロッパにレース修行に行くつもりも能力もない。庭や菜園の世話、サラリーを得る仕事、そして何よりも家族との時間を大切にすること。そのような日常の暮らしの合間にバイクを日課として溶け込ませること。

僕の選択した道とは、現実の日常に徹する道だったのかもしれない。言い換えれば日常そのものに楽しみを見出そうという道を選んだとも言えるだろう。30年前の新聞記事は確かに僕の人生の大きな転機と成り得た。旅する自転車の非日常的人生ではないにしても、自転車のある日常的暮らしの出発点に、あの記事が成りえたことだけは確かだ。


■ STONE FREE-その1:昭和浪漫-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆昭和浪漫

石動山へ入る
かつての修験の場、石動山へ入る


1980年10月22日水曜日。この日、富山県の地元紙で県内最高の発行部数を誇る北日本新聞朝刊には、巨人軍の長嶋茂雄監督が辞任した記事が大きく取り上げられていた。でも当時中学三年生だった僕は、長嶋さんのトップ記事ではなく、富山県地方版のページに載っていた、ある記事を何度も読み耽っていた。

人それぞれ人生の転機という経験があるだろう。長嶋さんとの出会いによってその後の人生が変わったという人も大勢いるはずだ。僕の場合、地方新聞の地方版に書かれた一つの記事によって人生の転機を迎えた。

「やったぜ「全国一周」自転車で三ヶ月の旅」』

見出しの下の写真には、マラソンの宗茂選手に似たお兄さんが、荷物を積んだ自転車にまたがっていた。宗猛選手でもいいんだけど、何故か僕には宗茂選手に思えた。茂と猛、決定的な違いを述べよと言われても答えられないんだけど。・・若かりし頃の伊勢正三の様でもあったが、その写真のお兄さんはTシャツにランニングパンツを身に着け、ランニングシューズを履いていたので、やっぱりマラソンの宗茂選手だ。

そんなことはどうでもいい。でもどうでもいいことを書いているようだが、それだけ食い入るように記事を読み耽っていたことを伝えたいのだ。

自転車で日本一周する為にかかった「総費用は25万円」。三ヶ月の旅で25万円。25万円で日本隅々。そうか、自転車は安く旅ができるのか。低予算で、質の高い人生経験。ともあれ何の検証もなく勝手に「自転車はコストパフォーマンスに優れている」という意識が僕の中にすっかり出来上がった。

記事には「北海道で橋が流失。迂回路を50キロも走って体力を消耗した。」とも書いてあった。その頃よく耳にした山口百恵の歌う「いい日旅立ち」が突然僕の頭の中で流れ出した。当時の僕にとって未知の世界だった北海道は、「いい日旅立ち」が流れる世界だったのだ。この日の約1週間前に山口百恵が引退した記憶が後押ししたのかもしれない。そういえば、僕が始めて買ったドーナツ版レコードが山口百恵の「いい日旅立ち」だった。

僕は1965年生まれ。この年、ベトナム戦争でアメリカ軍が北爆を開始した。世界最強を誇る大国アメリカに対し、アジアの同胞ベトナムは一歩も退かなかった。1969年、ニューヨーク州ウッドストック・フェスティバル最終日の明け方、ジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌を演奏した時、僕は若干4歳だった。

よってリアルなカウンターカルチャーなんて知る由もない。日本の高度経済成長もとっくに終わり、学生運動の嵐も昔話になっていた1980年の当時、僕はようやく中学三年生で、両親に反抗するくらいがやっとの体たらくだった。

ジャック・ケルアックやリチャード・ブローティガン等々、ビートニクな活字をライブ感の無いファッションとして、後世味わうに過ぎなかった。当時の僕は、極力レールから脱線しないように、大人の敷いてくれた明確な轍、そんな『オン・ザ・ロード』を、安全神話の中で歩んでいた。そんな矢先に飛び込んできた地方新聞の活字とモノクロ写真。でもその活字世界はヒッピーでジプシーな匂いと開放感を伴い、大人が敷いてくれた道とは別世界の、もう一つの『オン・ザ・ロード』を教えてくれているようだった。何となく土の香りがした。

正直言って当時、受験生だった僕は閉塞感に苛まれていたのだと思う。そんな窒息しかけた僕に、ささやかではあったがつむじ風が吹いたように感じられた。でもそれはささやかで一時の風にすぎなかった。事実、新聞の宗茂選手に似たお兄さんは、僕に満面の笑みを見せてはいなかった。時既にロックが死んでしまっていることを諭すように、そしてこう囁きかけているようだった。

「何事も深入りするなよ。ある意味、生きるのがつらくなるぜ。」

1980年という日本社会は、ちっぽけで軟弱な受験生の僕にとって如何ともしがたいのも事実だった。そしてその年の12月、海の向こうでジョン・レノンが射殺された。

「長嶋茂雄が監督を辞任しても、巨人軍は永遠に不滅です。激動の昭和よ、さようなら。ラヴ・アンド・ピースよ、永遠に



■ STONE FREE-口絵-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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New Cycling2103_10
如意の渡し船着場跡
如意の渡し舟は2009年に廃止され、今は義経と弁慶の像だけが船着場跡に残されている

義経雨晴らしの岩
義経雨晴らしの岩。左側は女岩、右側はJR氷見線

氷見漁港とブリ小僧
氷見漁港とブリ小僧

石動山の山頂
石動山の山頂。このあたりを大御前(おおごぜん)と呼び、周囲は原生林に覆われている

能登歴史公園
石動山は現在、能登歴史公園として少しずつ整備されている

■ シリーズ一覧(その2)2017/09/18

2017年3月26日以降、One's Way{ワンズウェイ}の里山暮らし日記にアップしたシリーズの一覧です。
さらばもう一度、アイルランド回帰の旅

 [僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]
その1 Summer in 1995
その2 Aran Islands
その3 Killarney
その4 Carrick-on-Suir
その5 OK SPORTS
その6 DANNY BOY
 
 [僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]
その1 Air Mail to Ireland
その2 Summer in 2005
その3 Hill of Tara
その4 Connemara
その5 Carrick-on-Suir Again
その6 The present time in 2013

New Cycling2013.08
その1 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。
その2 世界は認識でできている
その3 名水は清濁併せ呑む
その4 政の砦と聖の道
その5 蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ
その6 重荷を降ろして自由に

New Cycling2013/10/No.602
口絵
その1 昭和浪漫
その2 ヘイセイ・リアリズム
その3 石が、そして山が動く
その4 STONE FREE
その5 石動山曼荼羅



■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その6:重荷を降ろして自由に)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★重荷を降ろして自由に

閑乗寺公園から春霞の散居を望む
[閑乗寺公園から春霞の散居村を望む]

そもそも、人間の正体がデータをダウンロードされた存在なのかもしれない。遺伝子情報をコピーされたモバイルな端末なのかもしれない。ひとつのフォルムとしての人間個体は有限である。だから子孫を残し、その核となる遺伝子は新たな固体に保存されることを望む。遺伝子情報自らが新たな固体を生ましめるモチベーションなのかもしれない。

哲学者サルトルは言った。人間の「実存は本質に先立つ」と。人間にはある特定の目的があってこの世に生まれたのではなく、存在すること自体のために生まれてきたのだというわけだ。これを実存というらしい。だから存在すること自体が価値あることなのだとサルトルは言った。

例えばここに自転車がある。自転車は移動するという目的を持って生まれた(生産された)道具である。この移動するという目的が道具としての自転車の本質である。その目的・本質がなければ自転車という道具は存在し得ない。だから自転車の本質は実存に先行している。時々、実存的愛情を我が自転車に感じる時もあるのだが。

・・・では人間の場合はどうか。人間は道具と違うというわけだ。むしろ反対で、人間の実存は本質に優先されるとサルトルは言っているのだ。しかし一方でサルトルはこうも言っている。これは同じフランス人思想家アルベール・カミュに対して言った言葉である。「君が君自身であるためには、君は変わらなければならない。」と。ひょっとしたらサルトル哲学も更新されねばならないのかもしれない。「伝達される遺伝子情報は、一人の実存的人間に先立つ。」と。そう考えると世界はハードボイルドだ。非情だ。でもこれが現実なのか。しかし、これはあくまでも僕個人の勝手な意見だ。だから無視していただいたほうが良いかもしれない。

とはいえ、仮にデータを保存・更新・継承していくことが、人間、生物、そして世界の成り立ちだと仮定するとしよう。それならば望むところだ。サイクリストとしての僕は、サイクリングで得られた情報・発見・記録・認識、思想等を、自分自身だけの記憶や個人的記録など自分の身辺にのみ保存しておくよりも、もっと安全・安心且つ恒久的な場所に保存することを考えた方が良いのではなかろうか。それは危機管理にもなるし、それ以上に自分自身が身軽になる。シンプルになる。自分は単なるモバイルな端末であるが、それが返って僕のフットワークを軽くしてくれる。決して世界はハードボイルドで非情なばかりではない。非情なのではなく、重荷を下ろし、しがらみを断ち切って、正に自由になることができる世界なのかもしれない。

「もし、明日、この世が終わりを告げるとしても、私は今日、林檎の木を植える。」
マルティン・ルター(ドイツのキリスト教宗教改革者)

「今日死んでもいいように生きなさい。そして同時に、千年生きるつもりで今日生きなさい。」              
マザー・アン・リー(キリスト教シェーカー教団開祖)

僕はこの瞬間を大好きな自転車に乗ってモバイルすれば良いのだ。僕のサイクリストとしてのアイデンティティやデータは、その都度、NCを通じて市場(マーケット)に預ければよい。否、NCという「天」に預ければよいのだ。そうすれば、僕の財産、否、僕自身といっても良いかもしれない、僕は生かされ続けることになる。さらに欲を言えば、それが誰か大切な人との合作データだったら・・・これ以上望むことはない。ちょっと感傷的になってきたな。でもひょっとしたら、彼岸、極楽浄土、天国、神の御国に生きるということは、そういうことなのかもしれない。本当に有り難い事だ。合掌。アーメン。


・・・・・・・マタイによる福音書6章19-21・・・・・・・・

天に宝を貯えなさい。

地上に宝を貯えてはならない。そこではしみがつき虫が食い、
泥棒が穴を開けて盗む。

天に宝を貯えなさい。
そこでは、しみもつかず虫も食わず、
泥棒が穴を開けて盗むこともしない。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。
“For where your treasure is, there your heart will be also.”

(了)

お読みいただきありがとうございました。

※これまでのシーリーズはこちらをご覧ください。

※ニューサイクリング2013年3月号に掲載された『さらばもう一度』の口絵、および前編、後編は以下をご覧ください。

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421647

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421648

http://onesway.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481604





■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その5:蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★蜘蛛(クモ)から雲(くも)へ


綽如上人墓かの眺望
[綽如上人墓からの眺望。上人墓の周りには墓地が広がる]

日常的なサイクリングはこのように気付きの連続だ。そのような気付き、云わば知的財産をどのようにして仲間と共有し、社会に公開し、メッセージを伝えつつも、一人のサイクリストが発する知的財産のオリジナリティを保護していくか。これは社会が成熟していくにつれてますます重要になっていくだろう。

ちょっと話がおおげさになってきたようだ。確かにその都度、財産保護のために公証人等に依頼したりするのはあまりにも事が大げさであり、「そこまでするか!?」となり、エゴイスティックであり、云わば非現実的である。そもそも著作権や知的財産の保護とは如何なるものか。僕は金銭的価値というよりも存在論的価値の問題が大きいと思う。ある人間が日々何を考えて生き、何を伝えたかったか。云わばある人間のアイデンティティの保護に関わる問題だと僕は思う。あたかも肉体は滅んでもソウル(魂)が生き続けるかのように。ひょっとしたら絶対に勝ち目のない死という相手に対し、一泡吹かせるささやかな抵抗、それは「記憶・記録」なのかもしれない。ちょっと気障な言い方をすればそれは「思い出」。


八房梅(やつふさのうめ)
[綽如上人墓の近くに咲いた八房梅(やつふさのうめ)。八重咲きの紅梅はひとつの花から8つの実をつけるという]

綽如上人の墓前を通過する同宗道の道標
[綽如上人の墓前を通過する道宗道(どうしゅうみち)の道標。聖なる道]

では、誰もが手軽にできて現実的且つスマートな知的財産保護、というよりはむしろアイデンティティ保護の方法として、どのような方法があるだろうか。自転車関係のことに限っていえば、現時点で僕が考える良い方法の一つが、『月刊ニューサイクリング』に作品(執筆や写真、イラスト等々)を投稿することである。雑誌という有料のマスメディアを通じパブリックに公開することである。つまり「知的財産を市場に乗せること」である。自分が発見した知的財産、それは自分が発見したと信じる知的財産であってもよい。そんな知的財産に市場の洗礼を受けさせることである。これには2つの理由がある。

一つは、その知的財産が財産価値を持つだけの代物なのか、はたまた、オリジナリ性を持つものなのか、まずは「NC企画」という出版社で審査され、その後、金銭を媒介とした市場で評価されるからだ。決して独りよがり、自己満足、主観的で終わらず、不特定の第三者の視点が加わるということだ。

もう一つの理由は、『月刊ニューサイクリング』というマスメディア媒体が公証人的役割を果たしてくれるということだ。本名で投稿フォームを出版社に送信し、一人のサイクリストとして身分証明を行い、『月刊ニューサイクリング』に掲載された際には、作品と著者名が公開される。そして自転車を通じて得られた新たな発見、新たな認識、新たな思想等、云わば一人のサイクリストとしてのパーソナリティが保護されるわけだ。『月刊ニューサイクリング』の優れた点は、日本のサイクリング雑誌の中で最も古く、最もヴィンテージが高く、日本のサイクリング史を網羅していることだ。そして1962年の創刊号以来、徐々にバックナンバーがDVDという形で電子データ化されている。そのDVDが市場で販売されており、云わば巷にバックアップが無数に存在するということだ。

このような観点からすればNC(『月刊ニューサイクリング』及び「NC 企画」)は日本のサイクリングに関する情報集積地及び発信地、つまりIT用語で言えばクラウドである。端末に位置するサイクリストは、オリジナルな発見や認識、記録等をNCに預け永久保存してもらうことができる。また他のサイクリストが必要な自転車に関する知識や情報を入手したい時は、『月刊ニューサイクリング』のバックナンバー等を見返したり、「NC企画」にアクセスすることで入手可能だ。昨今は個々の人間が互いに繋がり合うウェブの時代から、中枢神経系を有するクラウドの時代。云わば地上を這う蜘蛛(クモ)の時代から、空天に浮かぶ雲(くも)の時代に移行している。再度繰り返す。NCに個人的情報を投稿・送信する行為は、自転車に関する中枢情報基地いわばクラウド=「天」に知的財産を預けることと捉えることができるのではないか。



■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その4:政の砦と聖の道)2017/05/28

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★政の砦と聖の道
瓜裂清水から数キロ西に向かうと、名刹「瑞泉寺」がある。今から600年以上も前の室町南北朝時代。比叡山延暦寺など旧仏教の圧力を逃れ、北陸の地に念仏を布教していた綽如上人は、後小松天皇の要請を受け上京する。それは中国明王朝との外交文書の解読及び返書作成の為であった。当時のエリート延暦寺僧でも解読できなかった漢文を綽如上人が翻訳し、日本は面目を保つことができた。天皇はいたくお喜びされ、綽如に「領地でも何でも与えるぞ。」とおっしゃった。綽如は「私は仏門に仕える僧です。領地などめっそうもありません。もし願いを申し上げるならば、北陸の地で念仏の教えを広める許可をいただきたい」と申されたそうである。天皇は「それはたやすいこと」と、瑞泉寺を建立する許可を綽如に下されたとのことである。


瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院
[瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院。一向一揆といった政治権力の一大拠点であった。]

瑞泉寺は城壁に守られたような大寺院。一向一揆といった政治権力の一大拠点。現在は本堂の銅葺き屋根の修復中であった。新しい屋根はガルバリウム鋼板葺きになるそうである。


臼浪水(きゅうろうすい)と桜
[臼浪水(きゅうろうすい)」と桜。臼浪水は瑞泉寺発祥の地。原点の水は今も湧き出ている]

現在の瑞泉寺は度重なる戦禍や火災によって場所を少しずつ移動させてきた。お寺のほど近くに「臼浪水(きゅうろうすい)」と呼ばれる湧水がある。そこが瑞泉寺発祥の地である。綽如上人の勧進状(寺の建立のために寄付を募るための書状)に、「この地に霊水あり。故に瑞泉寺と称す。」とあるそうだ。そういえば瑞泉寺のある井波町(現南砺市)の名称も「水」にちなんでいた。


綽如上人墓
[綽如上人墓]

瑞泉寺の南方山麓を上って行くと、綽如上人の墓とその墓を守ってきたお寺「大谷支院」があっ
た。先述した後小松天皇と綽如上人とのやり取りや浄土真宗の北陸布教の話は、大谷支院の住職にお茶をいただきながら伺ったものだ。綽如上人のお墓は杉木立の中にあった。墓の上部には川原石が置かれていた。川の水も人間も何処に流れていくのだろうか。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は生前、「自身の墓は要らぬ」と語っていた。五代目法主綽如は自身の墓についてどう考えていたか、僕は知らない。そもそも墓というものは、後世の人々の、手を合わせずに入られない心の拠り所なのだろう。

綽如上人の墓前には、「道宗道(どうしゅうみち)」の道標があった。室町時代、浄土真宗に厚く帰依した山人がいた。名を「赤尾の道宗」という。彼は山奥五箇山に道場を開き、身を修めた。月に一度は山の尾根づたいに瑞泉寺まで参ったという。その道宗道が地元の人々によって復旧されつつある。道宗道は、加賀国を目指す一向一揆の真宗古道とは一線を画した、政治色を払拭し静かで思索的な道のようだった。

綽如上人墓からさらに山麓を上って行くと、見晴らしの良い「閑乗寺公園」にたどり着く。公園からは、絶えることのない「庄川」によって造られた扇状地に広がる散居村が一望できる。縦横無尽に流れる用水路のおかげで、井波の地には稲作文化が発展継承されてきた。庄川の治水も進歩し、人々は水田近くに住まいすることができるようになった。高台に身を寄せ合って生きていた人々は、広い平野部に降りていった。そして屋敷の周りにはスギやケヤキなどを植栽し「カイニョ」と呼ばれる屋敷林を育てた。人間の営みもまた自然の営みの一部である。人間という名の大自然である。自然と人間、聖と俗、表と裏、陰と陽、そして天と地。世界はいとも簡単に二分・二極化できるものではないと思う。雲ひとつない快晴の日でも霞みかかった世界。僕はそんな富山の風景が大好きだ。