■ One’s Way Part1(その5-2) ― 2017/10/22
今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年11月号に掲載された作品です。
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■ 立山アルペンヒルクライム2013 -2
2013年6月22日(土)、レース前日。天気は曇り時々雨。立山山麓、吉峰グリーンパークでは、レース受付及びバイク搬送作業が行われていた。バイクは丁寧に梱包され、トラックでスタート地点の美女平に輸送されるのだ。地元富山県業者であるトナミ運輸の丁寧なバイク梱包には驚いた。この場をお借りして感謝を述べたい。
開会セレモニーでは大会安全講習会が、参加者全員に義務付けされており、それを受講。その後、バスで宿泊先の立山国際ホテルへ運ばれた。
ホテル到着後のスケジュールは食事時間が設定されている以外は特に無し。部屋は5人の相部屋だった。
2013年6月23日(日)、レース当日。天気は晴れ。朝は3時に起床した。マッサージオイルを脚に塗り、着替えをした。朝食はレース後の午前10時に予定されており、バナナを食べて3時50分バスに乗り込んだ。
4時45分スタート地点の美女平に到着。そこにはバイクが既に並べてあり、自分のバイクを受け取った。コースは封鎖されておりアップする場所はほとんど無い。レース序盤でウォーミングアップせよ、というわけである。それも上り坂で。関門通過時間を考えながら。
5時20分。雄山神社神主による大会安全祈願。此処からは神の聖域に入る。僕はヘルメットとキャップを脱いだ。本当はそのままヘルメット無しで走りたかったのだけれど、昨今のレースではヘルメット着用が義務付けされている。
話は逸れるが、28年前の1986年、第一回乗鞍マウンテンヒルクライムレースを僕は走った経験がある。その時は小雨の降る中、赤いヘッドバンドのみで走り切った記憶がある。当時はフランス人プロレーサーであるローラン・フィニョンのヘッドバンドスタイルに憧れていた。彼は誇り高きパリジャンだった。自分という芯があった。
最近の乗鞍ヒルクライムは抽選のある4000人規模の大会に成長したが、第一回大会は300名の出走だった。上りのみのヒルクライムでヘルメットを着用していた選手はほとんどいなかった。欧州プロロードレース界でヘルメット着用が本格化したのは、1995年ツール・ド・フランスで、モトローラチームのファビオ・カサルテッリ選手が下りで落車、頭部を強打し死亡した事件後である。それ以前は、ヘルメット着用に抗議して、選手がレースをスタートしなかったこともあった。
フランス人は1789年フランス革命以来、国家権力のプライベート介入には極めて神経質な国民であると聞いたことがある。学校から出される子供の宿題でさえも拒否する傾向があるらしい。確かに何処までが個人の責任の領域で、何処までが公的な責任の領域なのか考えてしまう。ヘルメット着用について、着用した方が着用しないよりもリスクが少ないことは明らかだ。また、着用しないと出走できないのも事実。でも規則に盲従というのも如何なことか。しかも上りのみのヒルクライムで。安全祈願が終わって、とりあえず僕はヘルメットを再び被った。この「とりあえず」というのが曲者なんだよね。

※ 立山アルペンヒルクライム、スタート前。美女平の伝説、美女杉の前で