One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 2017年の第1クオーターが終了 by T2017/03/31

今年も4分の1が過ぎました。ここ数年スーパーマーケットへ行った回数を数えています。
2014年は9回
2015年は6回
2016年は2回
そして今年の現在まで、0回


我が家は週2回の食材宅配サービス(みどり共同購入会と富山県生協)をお願いしているので、基本的にスーパーマーケットへ行く必要はありません。脱スーパーマーケットを身につけると良いことがあります。それは駐車場でのクルマの接触事故といったリスクが回避されます。当然無駄なガソリンを使わなくても良いです。脱スーパーは脱クルマでもあるようです。 田舎ではクルマを所有しないと生きていけないという先入観は、食べていくという点に限って言えば誤りであると思われます。


スーパーマーケットへ行かなくてもよいのは家で調理をしないからではないかという指摘も考えられます。ですから加えて外食の回数も数えています。ちなみに年間の総食事回数は3食×365日=1095回です。そのうち我が家の外食回数は
2015年は35回
2016年は54回(アイルランド旅行をしたので多かった)
そして今年は現在まで10回


私たちの外食の定義は家で調理をしていない食事全てを指します。だからコンビニ弁当を家で食べても外食ですし、デパ地下でお惣菜を買ってくるのも外食です。

10回の内訳は、正月のお年始に夫婦それぞれの実家での食事が2回、一泊二日の東京旅行で5回、インフルエンザ予防接種替わりのお寿司を注文して1回、義母と買い物に行った時の昼食が1回、あと1回は夫婦それぞれ職場等の昼食会で合計10回です。


3ヶ月で90日つまり朝昼晩で270食中、外食が10回ですから260食は妻が家で調理してくれたことになります。我が家のキッチンにはタイマー付き電気炊飯ジャーと電子レンジと電気ポットがありません。ですから朝ご飯を炊くためにガスに火を付けなければなりませんし、冷凍食品をチンすることもできません。そのような条件の下、昼の弁当も含めて260回の内食にとても感謝しています。ともあれ我が家の外食回数は少ない方だと思います。


脱スーパー買いや脱外食習慣について、今どきの時代、信じられないと言われることもあります。でも逆に僕に言わせれば、食べ物を求めて外に向かうのは獲物を求めて狩りに行く原始人と似ているのではないかと思います。ヘンリDソローは『ウォールデン』の中で書いています。


文明人とは経験を積んだ未開人である。

薪ストーブの天板に並ぶ鍋たち

■ 継ぎの当たったシャツを着れますか? by M2017/03/30

1950年代の足踏みミシン、今も現役です
「膝に継ぎの当たったズボンを履けますか?」

ヘンリーDソローが知人にした質問だそうです。
ほとんどの人はそんなものを着たらまるで一生が台無しになってしまうよ、という態度を取ったそうです。挫いた足を引きずりながら町を歩いた方がよほどましとのこと。

さて、今日の昼食後、夫が私にお願いがあるというのです。そのお願いとは…
「作業着に継ぎを当てて欲しい」というものでした。生成色に黒の大きなチェックの入ったウールシャツで結婚当初にフリーマーケットで購入したものです。

その頃夫はほとんど服というものを持っていませんでした。大げさに聞こえるかもしれませんが本当です。洋服ダンスの3分の1を夫用に空けてあったのですが、いつまでたっても実家から服を持ってこないのです。業を煮やし私が夫の実家へ取りに行くと、夫の部屋にはTシャツとジャージが詰め込まれたゴミ袋が部屋の中央に一つあるだけでした。

思い起こせば結婚前の夫は、Tシャツとジャージ以外では、春夏用、秋冬用の街着それぞれ1着を着続けていたような気がします。

そういうわけで結婚当初はフリーマーケット等で街着をしばしば買いました。そのうちの1着が先のシャツなのです。秋から冬にかけて頻繁に着ていましたが、ものが良かったせいかまだ生地はへたってはいません。しかし、昨年の秋、裾に3cmほどの裂けが見つかったので作業着に降格したのです。さらに山の中ででも引っ掛けたのでしょう、最近になって肘にも5cmほどの裂けが増えていました。

私が怪訝な顔をしていると、最初に記した「森の生活ーウォールデンー」の記述が夫の口から出てきたのです。自称ソロービアンですので「継ぎの当たったシャツを着てはいけません」とは言えず、継当てをすることになりました。

そこで登場したのが、私の祖母の足踏みミシンです。父によると、1950年代に祖母(父の母)がどうしても欲しいと言い購入した代物とのこと。私が物心ついてからずっと結婚を機に家を出るまで、祖父母の部屋の外廊下に置いてありました。小学校高学年になってミシンを触れるようになり、ちょっとした小物や簡単な服を作ったこともありました。

結婚を機に実家を出るにあたり、祖母はすでに亡くなり誰も使っていなかったそのミシンを譲り受けました。それから26年間全く使いませんでしたが、仕事を辞めたら使おうと思っており、新居にも持って来てありました。

そして昨年4月、祖母が亡くなってから30年以上全く使われていなかったミシンが息を吹き返したのです。2008年大河ドラマ『篤姫』の撮影にミシンを提供されたミシン屋さんが富山市中心部にあり、その店主が家まで来てくださいました。油を注し、ベルトを取り替え、悪戦苦闘の末、使えるようになったのです。

息を吹き返してから1年ですが、ミシンを使ったのはこれまで3回だけ。古タオルで雑巾を縫ったのが1回、日本手ぬぐいの端を縫いほつれを防止したのが1回、古くなったコットン製のワンピースの丈をつめ部屋着にしたのが1回。

裂け目の裏に当て布を貼り、表からミシンをジグザグに細かくかけました。そう言えば、故津端修一さんも継ぎの当たったズボンを履いていらっしゃいました。これで夫が、ヘンリーDソローと津端修一さんに一歩近づけるとしたら、継当てシャツもありということでしょうか。

最後に…
今、分かったことなのですが、継ぎ当てをしたシャツは洗濯前だったそうです。汚れがなく、汗臭くなかったので気づきませんでした。

「えっ!洗濯してから補修するものだと思うよ!」と言っても後の祭りです。

■ 里山で体温を一定に保ち続けること:ヘンリーD ソローに学ぶ by T2017/03/27

ウォールデン池畔で「ウォールデン」を読む_2004.8_
過ごしやすい気候になってきました。薪ストーブに火が入るのも朝晩だけとなり、薪の消費量も少なくなってきました。

今シーズン焚いた主な薪は2013年ヴィンテージもの。つまり暖房費は3年以上前に支払いしてあったものです。来年の暖房費も既に前払いしてあります。前払いといっても実際はお金ではなく薪を割って薪小屋にストックしているという意味です。

お金とは一線を画した暖房費。薪は原油価格の変動や原発事故後の電力料金など不安定な社会情勢に左右させずに安定して来るべき冬を暖めてくれるでしょう。

ヘンリーDソローは著書『ウォールデン』の中で書いています。

「自分の薪の山を見るときは愛着の眼差しをそこに向ける。」 
佐渡谷重信 訳


ところで話は変わりますが、生きるとはどういうことでしょうか。やはりヘンリーDソローは『ウォールデン』の中で書いています。

「われわれの身体にとって最も必要なことは保温すること、つまり体温を一定に保っていくことである。」

生きる目的は生存し続けること。つまり体温を一定に保ち続けること。僕はそう解釈しています。

人間は哺乳類で恒温動物。そんなこと分かりきったことではないか!と言われるかもしれません。でも僕は極めてシンプルに人生というものをそう本気で捉えています。つまり生きることの定義と目的が一致した人生を歩むことを行動の第一原理としています。

体温を一定に保つということは体温が低すぎてもいけませんが高すぎてもいけません。体温を一定に保つということは、生活のための必要な熱量を確保すると同時に、生活を脅かす過度な熱量を排除することの両方が大切です。

生活に必要な熱量の確保とは具体的には、燃料の確保、食糧の確保、住空間の確保、生活必需品獲得のための資金確保、将来及び危機管理としての適度な貯蓄などです。

生活を脅かす過度な熱量の排除とは、無駄な購買消費や過度なエネルギー消費の排除、無駄な所有の排除、一切の借金負債の排除、時間を浪費する過度な労働や社交の排除などです。

そして以上のような体温を一定に保つ熱確保と熱排除のために、私たち夫婦が選択した方法・戦略が何をかくそう里山暮らしという戦略なのです。

親や子供に依存しすぎない自立した家庭生活を生活信条に従って営むための場所は、都会であっても里山であってもどちらでも構いません。ただ都会生活では概して消費活動が生産活動を上回る傾向が強いようです。生産手段としての土地が少ないことと消費を促す刺激の多さが都会の特性なのかもしれません。

一方里山生活では広い生産手段としての土地、豊かな自然資源などの好条件により生産活動が消費活動を上回る可能性を秘めています。

薪をつくったり家庭菜園を営んだり、空調や防災などアメニティとしての庭つくりといった必要熱を生産する活動が暮らしの一部となれば、その分無駄無益な消費活動や浪費時間も抑制されます。

よく「スーパーマーケットやショッピングモールが近くに無いと不便じゃありませんか?」と言われます。僕に言わせれば、不便だから良いのです。不便だから里山が有利なのです。不便だから里山に住んだのです。それに不便といったって里山は奥山ではあるまいし。

そんな有利な里山の中で私たち夫婦は体温を一定に保ち、誰に何を言われようと可能な限り生存し続けたいと思っています。何故生存し続けたいのか。再度申しますがそれこそが生きる目的だからです。

世界を見よう。お互いに知ろう。それが人生の目的だから。 映画『LIFE』より

■ お雛さまを片付けて・・・・ by M2017/03/04

ウォールデン池を題材にしたリトグラフと写真
今朝、雛飾りを片付けました。
賑やかだった玄関横の棚がすっきりとしました。残ったのは、リトグラフの額とフォトフレーム、スタンドの3つ。

朝食の片付けをしながら棚を眺めていて、今日はこのリトグラフと写真のことを記事にしたくなりました。題材はともにウォールデン池です。

アメリカ東海岸のボストン近郊のコンコードの中心部から約2kmのところにある周囲が3kmほどの池。この池については、以前、記事にしました。
http://onesway.asablo.jp/blog/2017/02/13/8360054

この旅では奇跡の連続で、この写真も奇跡の一つです。当時、私たちが使用していたのは一眼レフのフイルムカメラと写ルンですでした。ですから現像するまでどのように撮れたかを確かめることはできませんでした。

ウォールデン池詣でをしたのち、池の近くのショップで見つけたのが壁にかかっているリトグラフです。記念に買い求め持ち帰りました。そして、旅の写真を現像・プリントし、よく撮れていた1枚をフォトフレームに入れ、額の下に飾ったところ、アングルが一致していたのです。縦と横の違いがあるものの右に3本、左には2本の木を入れたところまで!

フィルムカメラですから、シャッターを押すのはよくよく考えてからです。そんな少ない写真の中の1枚と同じアングルで作られたリトグラフを私たちは無意識に購入していたのです。

ソローにまつわる他の題材をモチーフにしたリトグラフもあったのですが、夫も私もこの作品が気に入り買い求めたものでした。同じアングルだということに気づいた時は、驚きのあまり声も出ませんでした。

雛飾りがないときも棚は、お気にりの作家さんの作品やイベントの案内DM、花器に入れた草花などで賑やかなのですが、たまたま生まれたこのすっきりとした雰囲気も悪くはありません。しばらくはこのままにしておこうかと思っています。

■ 鉄の斧と金(カネ)の薪割り機 …by T2017/02/17

鉄の斧
先日、生まれて初めて薪割り機を使う機会がありました。最初に結論を言いますと、やっぱり斧で割った方が良いと思いました。その主たる理由はこういうことです。

現在のところ斧割りで何の問題も感じないからです。将来、体力が衰えて、というよりも気持ちが萎えてしまい、斧割りが困難になるときがくるかもしれません。その時は高価な薪割り機に投資するよりも、薪ストーブに代わる暖房器具に投資・設置して、薪ストーブはそのまま残し、時々細々と自分で割ったり、既に割られた薪自体を購入して楽しむといった暮らしに移行すれば良いと思っています。それに薪割り機といっても結構体力を必要としましたよ。


薪割り機の良い点を推測すると
① 作業時間を短縮できること
② 作業労力を減らすことができること
③ 割りにくい木も細かく割れること などです。

つまり薪割り機の良い点とは、速くて楽(ラク)なことだと言えます。


でもそれは本当でしょうか?

斧割りの場合、すき間時間を見つけて作業をただちに開始できます。途中での作業中止や片付けも簡単です。一方薪割り機は準備・片付けに時間がかかります。また購入費と維持費が掛かります。購入費や維持費とは他の場所での労働時間を投資して手に入れた金銭です。金銭自体に時間がかけられているのです。


ヘンリーソローは『ウォールデン』の中で書いています。
「私がいま徒歩で出発すれば、夜までには到着する。・・その間に君は汽車賃を稼ぎ、翌日の何時かに(汽車に乗って)そこへ着く。」つまり「最も迅速な旅行者というものは歩いていく人だ」と。

これは薪割りにも言えることではないでしょうか。

薪割り機は楽(ラク)かもしれません。でも斧割りに比べると楽(タノ)しくはありません。薪割り機は使えば使うほど動力源のエンジンを消耗・劣化させます。斧割りは動力源である人間身体を鍛え長持ちさせます。つまり使用とメンテナンスが同時進行なのです。

また人間の燃料は食物です。ガソリンに出費しても喜びはありませんが、食事に出費するのは食べる喜びがあります。

というわけで、僕の意見では斧に軍配があがります。あなたはどう思いますか?