■ 書籍整理 その2 『ブッダは、なぜ子を捨てたか』 by T ― 2019/02/03
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』山折 哲雄 集英社新書 2006
冒頭に以下の文章が引用されていた。仏教開祖ブッダの言葉である。
「ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、我が身をととのえて、林の中でひとり楽しめ。」
ダンマパダ・21-305 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』
ブッダは当然ながら仏教の開祖である。しかしブッダ本人は仏教徒ではない。彼はヒンドゥー教徒である。正確に言えばヒンドゥー教では悟りの境地に達し得なかった求道者であった。このことはキリスト教の開祖イエスにも言える。彼はキリスト教徒ではない。彼は反主流派のユダヤ教徒であった。
浄土真宗の開祖である親鸞も然り。彼には浄土真宗を開いたという意識はない。彼は法然を崇拝する浄土宗徒であった。そして親鸞は一人も弟子を従えなかった。
宗教に限らずあらゆるものは時間と共に変化する。後世の者が誰かを教祖に奉り上げ教えを改変する。これも諸行無常か。だからこそ孤独に原点に立ち返る必要がある。原点は全く異なった様相を呈するかもしれない。
近頃の日本において、少子高齢化を憂い、産めよ増やせよと叫ばれる背景には、既存の社会福祉制度を維持できないとか、地方のインフラ等が衰退するとかといった不安喚起がある。つまり今生きている既存の大人が今後も生き長らえるため、新たに生まれてくる子供が必要ということか?荒っぽく言えば、自分が生きていくための手段として新たに生まれる人間を利用するということか?ある人間を他の人間のための手段・道具として捉えてよいのだろうか?人間はそれ自身を目的として捉えねばならないのではなかろうか。
ブッダの思想を葬式宗教としてでなく、人生哲学として認識する貴方にこの本を差し上げます。
連絡はOne’s Wayーそれぞれのあたりまえーのサイトフォームよりお願いします。なお返信がない場合は本の行き先が決定したということでご了承ください。
http://www.ne.jp/asahi/ones/way/about.html#contact
冒頭に以下の文章が引用されていた。仏教開祖ブッダの言葉である。
「ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、我が身をととのえて、林の中でひとり楽しめ。」
ダンマパダ・21-305 中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』
ブッダは当然ながら仏教の開祖である。しかしブッダ本人は仏教徒ではない。彼はヒンドゥー教徒である。正確に言えばヒンドゥー教では悟りの境地に達し得なかった求道者であった。このことはキリスト教の開祖イエスにも言える。彼はキリスト教徒ではない。彼は反主流派のユダヤ教徒であった。
浄土真宗の開祖である親鸞も然り。彼には浄土真宗を開いたという意識はない。彼は法然を崇拝する浄土宗徒であった。そして親鸞は一人も弟子を従えなかった。
宗教に限らずあらゆるものは時間と共に変化する。後世の者が誰かを教祖に奉り上げ教えを改変する。これも諸行無常か。だからこそ孤独に原点に立ち返る必要がある。原点は全く異なった様相を呈するかもしれない。
近頃の日本において、少子高齢化を憂い、産めよ増やせよと叫ばれる背景には、既存の社会福祉制度を維持できないとか、地方のインフラ等が衰退するとかといった不安喚起がある。つまり今生きている既存の大人が今後も生き長らえるため、新たに生まれてくる子供が必要ということか?荒っぽく言えば、自分が生きていくための手段として新たに生まれる人間を利用するということか?ある人間を他の人間のための手段・道具として捉えてよいのだろうか?人間はそれ自身を目的として捉えねばならないのではなかろうか。
ブッダの思想を葬式宗教としてでなく、人生哲学として認識する貴方にこの本を差し上げます。
連絡はOne’s Wayーそれぞれのあたりまえーのサイトフォームよりお願いします。なお返信がない場合は本の行き先が決定したということでご了承ください。
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