One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 心身脱落 by T2020/03/25

スイセン
最近、マインドフルネスという言葉が注目されています。マインドフルネス(mindfulness)とは「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずにとらわれのない状態で、ただ観ること」(ウィキペディアより)です。

私たちは、例えば食事やコーヒータイムなどの場面でも、食べ物やコーヒーを味わっているようで意識は過去や未来の考え事をしている場合が多いです。つまり今、この瞬間に意識が向いていないわけです。マインドフルネスとは今この瞬間に意識を戻し、有限である生きた時間を大切にしようというもののようです。

食事中も、今後のコロナの行く末や今後の株価の動向などばかり考えていると、何を食べたのか記憶に残らない、そんな経験はないですか?
たとえ明日までの命と宣告されたとしても、今この瞬間は、生まれた直後の瞬間と同等の価値を持つ大切な生きている瞬間です。

ところが時として不思議な瞬間があります。それはガーデニングしている瞬間です。

先日も、ホウレンソウやニンジン、シュンギクの種を菜園に蒔いていました。意識は確実に数ヶ月先の収穫を思い描いているのですが、同時に今この瞬間、春の日差しの気持ち良さや体を動かす心地良さを心身全体で味わい、今、この瞬間が堪らなく貴重で有り難く喜びに満ち溢れているわけです。数ヶ月先の収穫を望みながら、一方で、たとえ収穫がゼロに終わったと仮定しても、もう既に元は取ったようなそんな心境なわけです。これをマインドフルネスと言わずして何をやマインドフルネスでしょうか。

樹木を育てることはさらに数十年先のことに意識が向いているはずです。金山里山の会の70歳代の会員方々は「この小さなコナラの苗が大きくなる頃は、ワシらもうこの世にはおらんよな。」と、よく口にしながら、でも楽しそうに活動しておられます。この心境もマインドフルネスの状態だと僕は推測しています。

このような数十年先の意識のマインドフルネスとは、自己に囚われず、自己の範疇を飛び出し、自己以外の生命と結びついた、すなわち時空を超えたマインドフルネスのような気がします。

仏道をならふといふは 自己をならふなり
自己をならふといふは 自己を忘るるなり
自己を忘るるといふは 万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは 自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり
                                
 道元『正法眼蔵 現成公案』より

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