One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 移住者は自然を求め、地元民は便利さを求める? by T2021/09/29

良さは霞の中に
先日あるウェブ記事で、こんな言葉を見つけた。
「移住者は自然を求め、地元民は便利さを求める」

皆がみんなそうであるとは言い切れないけれど、完全に否定もできない。事実、私たちが里山に移住してきた時、地元の人に「何でこんな不便な所にわざわざ引っ越してきたの?」と尋ねられたことが時々あった。僕は決して不便だと思ってはいなかったのだけれど。

ところで話が変わって、日本において里山田舎が一変して住宅団地ベッドタウンと化した最初で最大の国内開発と言えば東京多摩ニュータウンであろう。開発は高度経済成長期の1965年に始まった。それ以前は緑豊かな里山丘陵だった。そんな自然を求め百姓をするため、太平洋戦争直前の1940年に移住したある夫婦がいた。白洲次郎・正子夫妻である。

日本がアメリカに宣戦布告する前から白洲は確信していた。日本は必ず負ける。そして食糧難になる。だから百姓になる。というわけだった。加えて多摩丘陵は都心まで近い。いざという時には都心に駆けつけることができる。白洲にとって多摩丘陵は不便な田舎ではなく、便利な都の延長だった。

僕は、田舎に居ながら常に都心に睨みを効かすカントリージェントリの白洲次郎に憧れてきた。現在僕は米作りの予定はないが、菜園を耕し薪焚き生活をしている。僕の住む金山里山から富山市中心まで30分、更に家のドアを閉めた瞬間から2時間後には、羽田空港にて遅めの朝食を食べていることができる。

先日、地元金山コミュニティセンター主催の金山未来を考えるワークショップにてブレーンストーミングをした際、僕は付箋にこう書いた。
「金山は東京に近い」と。
でも、「いいね」のシールを貼ってくれた人は誰もいなかった。

白洲次郎が多摩の里山に対し、自然と便利さ両方を認知していた。当時誰もそんな発想がなかった。
僕も白洲のように、金山里山に対し、自然と便利さ両方を認知している。今は誰も「いいね」のシールを貼ってくれないけれど。