One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 小鳥のレストラン、開店しました! by M2018/01/30

来店の気配あり!
写真は小鳥のレストランの入り口まで来てくれたにもかかわらず、去ってしまった鳥の足跡です。

寒さが緩んだ一昨日から、小鳥が我が家のデッキに遊びに来てくれたので、とってあったカボチャの種を皿に入れてデッキに置きました。小鳥のレストランの開業です。

私たちが見ている間は見向きもしない鳥たちが、私たちの目を盗んで来てくれているようです。皿の中の種が外に飛び散っていたり、糞があったり、来店の気配は残っているのです。

今日は、昨晩降った雪で里山は二日ぶりに銀世界となりました。小鳥の皆様のご来店をお待ちしてます!

■ シーシュポスの雪かき by T2018/01/30

雪かき雪かき終了!
連日、雪かき作業が続いています。どうせ時間が経てば解ける雪。でも、雪かきをします。どうせ又積もる雪。でも雪かきをします。どうせ人が歩く程度ならば適当に踏み固めればいい雪。でも、地面が見えるまで雪かきをします。積まれた雪山の側面が綺麗に立つように、結構こだわって雪かきをします。除雪機を使わず場所によって鉄、アルミ、樹脂製の3種類のスコップを使い分けて楽しんで雪かきしています。雪かきが終了したと同時にまた雪が積もっていきます。また雪かきをします。まるでシーシュポスの神話を連想します。

ギリシャ神話に登場する賢人シーシュポス。彼はゼウス神の怒りに触れ空前絶後の刑罰を科されました。それはとてつもない巨岩をタルタロス(地獄)にある山の頂まで運び上げるという刑罰でした。しかし刑罰はそこで終わりではありませんでした。本当の刑罰はそこからでした。巨岩が山の頂まで達すると、何と巨岩は転げ落ちるのでした。かくしてシーシュポスは永遠に巨岩を運び上げるという無益な労働をすることになったのです。

しかしもし、シーシュポスが巨岩を運ぶ作業自体を楽しんで行っていたとしたならばどうなるでしょう。シーシュポスは登山家のように重い荷物を背負って喜々として山登りをし、巨岩が転がり落ちようと頂上で素晴らしい眺望を楽しんでいたらどうなるでしょう。ゼウスに他罰的に与えられた労働でしたが、もしシーシュポスが、ゼウスに強制されるまでもなく、自由意志で巨岩を運ぶ労働を自己選択していたとしたらどうなるでしょう。

これでは刑罰にはなり得ません。この刑罰の肝は無益な労働を他罰的に強制されるところにあるからです。自由意思によって行われる労働は刑罰にはなり得ません。そもそも自由意思によって行われる労働は人間性が疎外されていないからです。

かくして賢人シーシュポスはゼウス神に対して勝利したと言えるわけです。シーシュポスは一見辛い表情を見せながら、心の中で神を哄笑しているかもしれません。

生きるということはそういうことなのかもしれません。生まれることは常に受動態として生まされますが、自分で好き好んで生まれてきたわけではないとか、どうせ努力したって最後は必ず死ぬのだから無意味だとか、歳をとったらどうせ今までできたことができなくなるのだからとか、そう考えて精進や努力をやめることは、運命という神々によって刑罰的に生きさせられている人生となるのかもしれません。どうせ無に帰す不条理な人生を自己選択し、主体的に生きるところに人間性勝利の意味が隠されているような気がします。

雪かきをし終えたら又雪が降り積もり、再び雪かきをする。でも生きている実感を抱きながら楽しんで、誰に強制されたわけでもないけれど、自ら雪かきを繰り返す。その楽しさとは、自分が今ここで丁寧淡々と不条理に抵抗して生きているといった人間性勝利・人間性独立宣言にあるような気がします。

参考:アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』