■ オチは何ですか? by T ― 2019/06/13
ティーンエイジャーの学生時代から繰り返し読んでいる本がある。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』である。今世紀に入り、村上春樹氏が翻訳した『ロンググッドバイ』が出版されたが、35年前に買った清水俊二訳の文庫本『長いお別れ』も未だに時々読む。
ヘミングウェイから続くハードボイルド小説という手法は、事実や登場人物の行為に関する記述を積み重ねていくことによって物語を展開いていくわけだが、だからといって登場人物に感情や考えが無いわけではない。人間を描く以上、感情や思考といった自我を持たない人間は想定できない(たぶん)。むしろ事実や登場人物の行為を通して感情や考えが表現されていく。正確に言えば、登場人物の本音としての感情や考えは(村上春樹氏の表現を借りれば)ブラックボックスに閉じ込めつつ、登場人物自身がこう感じるべき、こう考えるべきといった言わば再構築自我らしきものを表現していく。だからこそ読者はそこにロマンと憧れを抱くことができるわけだ。
『長いお別れ』の主人公フィリップマーロウは一見非情な雰囲気を醸し出しつつも、コミュニケーションのキレが鋭い。表層の非情さは他者に対する無関心、無共感とは異なり、過度な自己責任論を展開するものでも決して無い。そこにはマーロウが抱く然るべき信念やメッセージそして何よりも静かな思いやりがある。つまり対話のオチがしっかりと存在している。
最近は、孤独という概念に逆風が吹いている。老人の孤独死、孤独感が犯罪を招く、孤独から認知症へ・・といったマイナスイメージの風評が波立っている。そのせいか自分が実際孤独か孤独じゃ無いかに関わらず、自分は孤独では決してないこと(ない風に見せること)を、強力にアピールせずにはいられない昨今かもしれない。
時々、人と会話し相手の話を延々と聞いていて、最後に「この話のオチは何だったのだろう?」と思うことがある。相手は何を言いたかったのだろう?といった疑問である。
対話でなく独白
Talking with me でなく、Talking at me
相手と話をしているのでなく、相手という場所と時間を使って、ひたすら自分の話したいことを話しているのかもしれない。それは何のために?・・
果たして、この記事のオチはついたでしょうか?
ヘミングウェイから続くハードボイルド小説という手法は、事実や登場人物の行為に関する記述を積み重ねていくことによって物語を展開いていくわけだが、だからといって登場人物に感情や考えが無いわけではない。人間を描く以上、感情や思考といった自我を持たない人間は想定できない(たぶん)。むしろ事実や登場人物の行為を通して感情や考えが表現されていく。正確に言えば、登場人物の本音としての感情や考えは(村上春樹氏の表現を借りれば)ブラックボックスに閉じ込めつつ、登場人物自身がこう感じるべき、こう考えるべきといった言わば再構築自我らしきものを表現していく。だからこそ読者はそこにロマンと憧れを抱くことができるわけだ。
『長いお別れ』の主人公フィリップマーロウは一見非情な雰囲気を醸し出しつつも、コミュニケーションのキレが鋭い。表層の非情さは他者に対する無関心、無共感とは異なり、過度な自己責任論を展開するものでも決して無い。そこにはマーロウが抱く然るべき信念やメッセージそして何よりも静かな思いやりがある。つまり対話のオチがしっかりと存在している。
最近は、孤独という概念に逆風が吹いている。老人の孤独死、孤独感が犯罪を招く、孤独から認知症へ・・といったマイナスイメージの風評が波立っている。そのせいか自分が実際孤独か孤独じゃ無いかに関わらず、自分は孤独では決してないこと(ない風に見せること)を、強力にアピールせずにはいられない昨今かもしれない。
時々、人と会話し相手の話を延々と聞いていて、最後に「この話のオチは何だったのだろう?」と思うことがある。相手は何を言いたかったのだろう?といった疑問である。
対話でなく独白
Talking with me でなく、Talking at me
相手と話をしているのでなく、相手という場所と時間を使って、ひたすら自分の話したいことを話しているのかもしれない。それは何のために?・・
果たして、この記事のオチはついたでしょうか?