One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 僕は by T2019/06/14

ヘンリー D ソロー著『ウォールデン 森の生活』
常々、ブログ記事の中で、僕は「僕」という主語を使ってきました。「僕」なんて表現は大人っぽくない、子供っぽいと思いますか?子供っぽいと思うのはあなたですか?それとも世間的に思うのですか?では世間とは何ですか?

ところで、皆さんに質問します。記述文章にしろ会話文章にしろ、私でも僕でもどちらでも構いませんが、あなたは主語を明確にして語っていますか?

「私(僕)は・・と思う。」と記すところを、「(主語なし)・・と思われる。」とか、「私たちは・・と思う。」などと述べていませんか?

主語が曖昧だと誰の意見なのか不明瞭になります。何故不明瞭にするかというと、僕が推察するに、相手の心の内を探りながらマジョリティ(多数派)と真正面から対立することを避けようとしているのではないかと思うのです。と同時にそれはマイノリティ(少数派)を黙殺していることでもあります。

全会一致という議論は、世界標準からみて異常で危険な状態だと考えられています。

ヘンリー D ソローの著した『ウォールデン 森の生活』の冒頭には、ソローが「私」という一人称に徹してこの書物を書いたことを明確に宣言しています。若かりし頃、初めて『ウォールデン 森の生活』を読んだとき、冒頭からビシッと襟を正された気分になったことを今でも覚えています。

「全ての物書きは、終始、自分自身の生活を簡潔、かつ正直に書き、他人の生活のまた聞きなど書かないということだ。」 ヘンリー D ソロー