■ 神降地 by T ― 2019/10/31
上高地という場所は日本における近代登山発祥の地ということもあり、圧倒的な品格を感じる。
とはいうものの、これといった派手さも余興もなく、ただ通り過ぎるだけの観光ならばいとも簡単な日帰り旅行も可能だろう。また北アルプス霊峰に向かう登山客にしても上高地は通過点に過ぎないかもしれない。だから槍ケ岳に登ったとは誰もが言えないが、上高地に行ってきたとは誰もが言える場所である。
そんな上高地にあって、私たち夫婦が好む五千尺ホテル(かつての五千尺旅館)では三連泊や五連泊と連泊する常連の客もいらっしゃる。夕食テーブルでは一人でグラスを傾けながらフルコースディナーを味わっていらっしゃる静かな年配客も。僕はそんな動かざる年配客を見るのが好きだ。そこには上高地の品格に魅了された、一人の人間としての品格がシンクロするからだ。人が山を好むのではない。山が人を選り好むのだ。
そんな連泊客は上高地を眺めるためにやって来ているというよりは、あたかも上高地に居るために来ているようだ。上高地を呼吸するためというべきか。
上高地はマイカーで乗りつけることはできない。この条件が結構フィルターとなっているのかもしれない。上高地へ入るにはタダの徒歩で入るか、もしくは高額の移動費を敢えて支払ってまでして入るかのいずれかだ。
梓川を河童橋から上流に歩くこと1時間弱で明神池に辿り着く。穂高神社奥宮がある静謐な明神一之池の横に明神二之池がある。ここまではハイキングである。しかしここからは登山である。そう考えると明神二之池が『河童(芥川龍之介著)』の穴のように感じてしまう僕も穴がち見当違いでないのかも知れない。
人が山を選ぶのではない。山が人を選ぶのである。
とはいうものの、これといった派手さも余興もなく、ただ通り過ぎるだけの観光ならばいとも簡単な日帰り旅行も可能だろう。また北アルプス霊峰に向かう登山客にしても上高地は通過点に過ぎないかもしれない。だから槍ケ岳に登ったとは誰もが言えないが、上高地に行ってきたとは誰もが言える場所である。
そんな上高地にあって、私たち夫婦が好む五千尺ホテル(かつての五千尺旅館)では三連泊や五連泊と連泊する常連の客もいらっしゃる。夕食テーブルでは一人でグラスを傾けながらフルコースディナーを味わっていらっしゃる静かな年配客も。僕はそんな動かざる年配客を見るのが好きだ。そこには上高地の品格に魅了された、一人の人間としての品格がシンクロするからだ。人が山を好むのではない。山が人を選り好むのだ。
そんな連泊客は上高地を眺めるためにやって来ているというよりは、あたかも上高地に居るために来ているようだ。上高地を呼吸するためというべきか。
上高地はマイカーで乗りつけることはできない。この条件が結構フィルターとなっているのかもしれない。上高地へ入るにはタダの徒歩で入るか、もしくは高額の移動費を敢えて支払ってまでして入るかのいずれかだ。
梓川を河童橋から上流に歩くこと1時間弱で明神池に辿り着く。穂高神社奥宮がある静謐な明神一之池の横に明神二之池がある。ここまではハイキングである。しかしここからは登山である。そう考えると明神二之池が『河童(芥川龍之介著)』の穴のように感じてしまう僕も穴がち見当違いでないのかも知れない。
人が山を選ぶのではない。山が人を選ぶのである。