■ 「私見」何故、Vintage Bikeなのか?(その4:何故、古くなければならない?) ― 2017/02/25
今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年3月号に掲載された作品です。
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□何故、古くなければならない?
ヴィンテージという言葉以外に、アンティークという言葉もある。個人的には、アンティークという言葉にはヴィンテージよりも、さらに古く、骨董品的なニュアンスを感じる。そこまで時代がさかのぼると、もうそこはマイ・ジェネレーションではなくなる。
例えば自分の父や祖父が使っていたモノとかだったら話は別であるが、ただ古いだけの自転車やパーツを意識的に求めることにもあまり興味が無い。やっぱり自分のヴィンテージバイクは、過去から現在に至る、自分自身の自転車ライフが凝縮・結晶化されたものが良いんじゃないかと、個人的に思う。
ワインがワインセラーで丁寧に扱われ、そしてワイン自身のヴィンテージを高めるように、ロードバイクは路上にて年輪を刻んでいくのが良いと思う。レストアもそれなりにすばらしい文化だと思うし、レプリカに対する挑戦にも興味が無いわけでもない。しかしそれも行き過ぎると、最新のものを追い求めるのと同様、疲労感に襲われるのだ。
その時その時、その時代その時代、自分が良いなと思った機材を、選択できる環境条件の中から、現実的な手段と価格で選び、それを一期一会の貴重な出会いとして、末永く大切にお付き合いをする。補修パーツが製造中止になったとか、コンポーネント化の流れで、まだ使えるパーツも一緒に交換しなければならなくなったとか、いろいろな時代の制約もあるだろう。しかしそれも受け入れながら、それでも、「あくまで自分自身の自転車に徹する」。それが僕の、この世にたった一台のヴィンテージバイクなのだ。
そんなわけで、僕のヴィンテージバイクは、ヴィンテージバイクと呼ぶにはおこがましい代物だ。イタリア、トスカーナ地方で行われている、ヴィンテージバイクの祭典「エロイカ」で走っているヴィンテージバイクとは、器が違いすぎる。出場資格条件さえ整っていない。しかし、これはあくまで個人的趣向性の話として、弁明させていただきたい。
僕はロードバイクを一台しか所有しない。唯一のロードバイクで30年近く、常に走り続けてきた。(最近は走行距離も減少しているが、平均、週4日、一日2時間) パーツ交換といった新陳代謝を繰り返さねば走り続けることができなかったのだ。「2台以上ロードバイクを所有すればいいじゃないか。」そう言われればそうだ。でもより多くを所有する決断はどうしてもできなかった。スマートな生き方には思えなかった。
現在まで、たった一台のロードバイクには、できる限りの愛情を注ぎつつも、できる限り酷使してきた、その結果が、現前にある僕のロードバイクである。そもそも人間としての自分だって、日々細胞が入れ替わって、全く新しいパーツに入れ替わって、現在に至っているわけだ。それでも自分自身というアイデンティティは失わず生きている。半永久的に新陳代謝せず残存するということはミイラ化することだ。ロードバイクはロード上を力の限り駆けることによって、生成、生存し続ける、と僕は思うのだ。

初めてのロードバイクに取り付けられていたカンパニョーロ・ヌーヴォレコードは、今妻のミキストで健在である
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※妻のミキスト(この写真は雑誌には掲載されていません。)
![妻のミキスト[雑誌には掲載されていない写真です] 妻のミキスト[雑誌には掲載されていない写真です]](http://onesway.asablo.jp/blog/img/2017/02/25/46b9f7.jpg)