One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ フリーダム・トレイル(その3:シヴォレ・レンタカー)2017/02/13

2004年8月に私たちは旅行でボストンとコンコードを訪れ、帰国後旅の記録として冊子を作成しました。その文章及び写真を掲載します。

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フリーダム・トレイル:自由への軌跡
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シヴォレ・レンタカー

幌馬車を突っ走らせ、天然の鉱物を略奪、運搬し、そして同じく天然のネイティブ・アメリカンを隅に追いやっていったアメリカの自由(?)への軌跡は、現在もアメリカ車社会に脈々と受け継がれているように僕は感じる。アメリカの旅は車がないとかなり不便である。車を運転できない、あるいは車を所有できない交通弱者には厳しい試練を科す。私たちのような異国からの旅行者も、紛れもない交通弱者であり、しかたなくシヴォレのセダンを借りることにした。

しかし一旦車社会の仲間入りをすれば、同じ穴のムジナということでアメリカは温かく迎えてくれる。片道5車線のハイウェーでも車線変更はしやすいし、のんびり走りたい人と飛ばしたい人が葛藤することがあまりない。車を所有し運転できる水準に達していれば、いや、運転できる水準に達して初めて、個人として尊重される。まさに車の免許証が名実共にIDカードなのだ。だからなのか、アメリカ女性は男性に劣らず運転がうまいと僕は思う(ちなみに僕の妻も、日本産だが運転はうまい。これは本当です)。

歴史的にはニューカマーであったはずなのに、現在マジョリティーを名乗っているアングロ・アメリカンにとって、馬車の歴史はかなり古い。少なくとも古代ローマ時代までは遡ることができるであろう。だから車と人間との関係は、遺伝子レベルで親密であるのかもしれない。その証拠かもしれないが、欧米では屋根無しのコンバーティブルが多い。

ところが日本人はどうであろうか。日本人の歴史には馬車の歴史は存在しない(横浜の馬車道はかなり例外)。一人乗馬の歴史から明治になって突然一足飛びに、自動車文化が移植された。だからまだ車というものが日本人自我の無意識のレベルまでは根付いていないのではないかと僕は思う。意識できるレベルでは車を運転できても、無意識のレベルでは「乗りこなせていない」のではないかと思う。

交通弱者に厳しい自立独尊を要求するアメリカ社会であっても、道を横断する歩行者がいたら、横断歩道でなくても止まってくれ、渡るように手サインしてくれる。これは本当である。車を運転していてもしていなくても、その人間は自己一致している。表と裏が感じられない。

一方日本人は(全てとは言わないが)車を運転したら人が変わる、というか、本当の自分が現れる。横断歩道ではまず止まらないだろう。車線変更も申し訳なく入れてもらう雰囲気がある。遅い車がいたら煽るドライバーもいる。日本人全体に般化して述べることはできないが、自我の深いエス(本能のようなもの)の部分がムクムクと顔を出してくるような気がする。それでいて車を降りて、傍目を意識する歩行者になれば、信号のある交差点では、100パーセント車が来なくても、お行儀よくみんなで青になるのを待っている。同じ人間なのかと思う。アメリカではどんどん自己責任で信号無視していく。ドライバーもそんな歩行者に注意し、道を譲る。緊張感があってとても安全だ。あくまで例外もあるが。


シヴォレ・レンタカー




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