One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ STONE FREE-その3:石が、そして山が動く-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。
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◆石が、そして山が動く
僕が好んで走るサイクリングコースの一つに、里山の我が家をスタートして北上、富山湾を目指し、寒ブリで有名な氷見漁港から石川県境を越え、石動山(せきどうさん)に上るコースがある。往復で約100キロメートルのコースだ。

2013年5月8日、僕の住んでいる富山県は130歳の誕生日を迎えた。明治16年の同日、隣の石川県から独立した。石川県といえばかつて加賀百万石と呼ばれた地域。いわば大国である。そこから自治を獲得したのだ。

富山の地は海抜ゼロメートルの浜辺から3000メートル級の山岳地帯まで、さほど大きくない面積の中にコンパクトに納まっている。また世界的にも稀な豪雪地帯である。一年を通じて雪解け水の流れる一級河川は、急流となり、河川の数も多い。治水整備を急務とする富山側の人々は石川県からの独立運動を起し、遂に実現したのだ。最近は市町村合併や道州制導入など、長い物に巻かれるのが流行りのようだけど…。僕は我が富山県の誕生日を迎え、明治維新といった近代国家建設期の人々が抱いていた独立自尊の気概に対し、敬意の念を新たにした。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

時代を古代にさかのぼってみよう。超大国である中国の属州であり、中国側から「倭(わ)」と呼ばれていた列島の人々が、自らの国名を「日本」と宣言し、法に基づく国家形成を始めたのは7世紀から8世紀にかけての時代である。倭とは、「野蛮な」といった意味である。我々の先祖は野蛮で未開な民族から、堂々とお天道様を拝むことができる「日ノ本」民族になることを目指したのである。小さくても堂々毅然と世界に立ち向かうこと。この頃、わが国ははじめて自我に目覚めたと言えよう。

そして越中国(現富山県)にも国府が設置された。設置された場所は現在の富山県高岡市伏木。この辺りからサイクリングはアップを終え、本腰が入ってくる。万葉集の編者でも有名な大伴家持は、ここに国司として5年間赴任した。

彼は衰運に向かいつつあった名門大伴家の首長として苦難を一身に背負わねばならなかった。都を落ちて僻地の越中国に赴任させられた。国府があったとされる場所には、現在石碑が建てられている。そこは現在の浄土真宗勝興寺境内である。現在、勝興寺は修復中で写真をお見せできないのが残念。


如意の渡し船着場跡
「如意の渡し(にょいのわたし)」船着場跡

時代が中世に入る。国府跡の近くに、「如意の渡し(にょいのわたし)」があった。僕はそこに寄り道する。「如意の渡し」とは、小矢部川を対岸に渡るための渡し舟のこと。歴史は古く『義経記』に登場する。能の演目『安宅』で弁慶が主君義経を叩き、一行の危機を救った場面は、この「如意の渡し」に乗船する時のエピソードを基に創作されている。源義経にしても大伴家持と同様、中央政争に翻弄され、都を落ちていった英雄である。如意の渡しは、2009年に廃舟になった。小矢部川に近代的な橋が架かったためだ。

雨晴海岸
雨晴海岸

義経雨晴らしの岩
義経岩

ルートはここから海岸線に入る。日本海が広がる。「義経岩」辺りは、運が良ければ富山湾越しに立山連峰が見えるという絶好のスポットだ。海岸線のすぐ側をローカルなディーゼル機動のJR氷見線がゆっくりと走る。奇岩「義経岩」は、先述「如意の渡し」も含め、源義経が兄源頼朝に追われ、奥州平泉へ逃亡した歴史的事実に関連した伝説である。

実際、義経が通った逃亡ルートは正確には分かっていない。何処何処に義経が到着したなどといった公式の記録がないためである。記録など残っていれば、義経はとっくに捕まっていたであろう。この国の野に生きる無名の人々が、沈黙という行為で義経逃亡を助けた。大きな中央権力に抵抗して。記録が残されていないことがその確たる歴史的証拠である。そして伝説だけが残された。

「義経岩」伝説とは、この地を義経一行が通った時、にわか雨に遭い、この岩の穴の中で雨宿りしたというもの。すると雨が止んだという逸話をもつ巨岩である。「義経雨晴らしの岩」と呼ばれたことから、この地域に「雨晴(あまはらし)」という地名が付けられた。サイクリストにとって何と有り難い地名であるか。

義経一行は、能『安宅』の演出に見られるように修験道山伏の一団に擬して奥州平泉を目指した。それはかの武蔵坊弁慶のモデルとなった俊章という名の悪僧が比叡山無動寺の修験者であったことに由来するのか。はたまた旅そのものが修験の道なのか。TRAVELの本来の意味は「骨折って働く、苦労して旅をする」という意味だそうだ。旅も人生もサイクリングも修行なのかもしれない。

義経一行が北陸ルートを選択して奥州平泉を目指したという説の大きな根拠として、延暦寺と北陸の関係がある。霊山白山(石川県)における山岳修験は山門延暦寺の影響下にあり多くの僧兵を抱えていた。義経逃亡を手助けした実在の修験僧俊章が白山信仰の庇護の下、義経を奥州平泉に導いたであろうことは推察しやすい。また能登半島には白山とは別の大きな修験の場が存在した。それが石動山(石川県鹿島町)である。

石動山への上り途中
石動山への上り途中、先ほど走ってきた富山湾を望む

石動山は能登半島の基部にある標高565メートルの山であり、古代から江戸時代にかけて、加賀・能登・越中の修験道の拠点として栄えた場所である。石動山は正に石が動く山である。古い記録によれば、森羅万象の生命をつかさどる三つの石のうち、「動字石(どうじせき)」が天から堕ちて山が揺れ動いたとある。また、「天より星落ちて石と成り」ともある。

この「動字石」と呼ばれる石が石動山山頂近くに鎮座しておられるが、どうやら隕石ではないらしく、安山岩だそうだ。石動山は礫岩層から成り、もろく崩落が著しい。地滑りや崖崩れ、巨石までもが動く山である。石動山が古くは「ゆするぎさん」とも「いするぎさん」とも呼ばれていた理由がそこにある。

人々はそんな大いなる自然の力に畏敬の念を抱いてきた。そして荒ぶる男神「石動彦神(いするぎひこのかみ)」を奉り。「動字石」近くに伊須流伎比古神社(いするぎひこじんじゃ)を建てた。その後、この古い石動山信仰と仏教が結びつき神仏習合が進んだ。そして呪力、神通力を身に付けんがため、厳しい山林修行を求めて多くの修験者らが石動山に集まってきた。

彼ら「いするぎ法師」は神官でも僧侶でもなく、修験者山伏であった。結果、多くの院坊が出現し、その一帯が天平寺と呼ばれるようになった。

天から堕ちてきたとされる巨石と厳しい修行に打ち込む山伏との関係から、僕はある神話を連想してしまう。それはギリシャ神話『シーシュポスの神話』である。


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