One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ STONE FREE-その4:STONE FREE-2017/09/23

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年10月号に掲載された作品です。

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◆STONE FREE

石動山への上り途中
石動山への上り途中、森の中を走る

聡明なシーシュポスは、理由は諸説あるが神々によって怖ろしい刑罰を課せられた。それは休みなく巨岩をころがして、タルタロス(地獄)にある山の頂まで運び上げるというものだった。刑罰はそこで終わりではない。本当の刑罰はここからだ。巨岩が山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さで転がり落ちてしまうのだ。かくしてシーシュポスは無益な労働を永遠に繰り返すことになった。シーシュポスの末路を恥じた妻メロペーは、姉妹から離れ姿を隠したという。これは紀元前2000年の終わり頃、おうし座のプレアデス星団の星が一つ見えなくなった事実を伝えているという。天から堕ちてきた巨石「動字石」と山を上り下りする山伏「いするぎ法師」。これが僕の頭の中でシーシュポスの神話と共鳴する。


動字石
動字石は森の中に鎮座されている

僕が石動山にバイクで上るときは、必ずロジェーリの黒いカスクをかぶって上ることにしている。それは山伏の兜巾(ときん)に似ていないわけでもない。ようやく山頂近くの「動字石」のあるところまで上り詰めると、そこは見晴らしの良い開けた場所では全然ない。「動字石」のある場所は樹林の中にあり、眺望は全く良くない。そして蚊も多い。何の為に苦労して上ってきたのか、そこには明確な目的など見当たらない。僕はまた山の麓へと下って行くしかない。そして後日また、性懲りもなくエッチラ上ってくるのだ。

確かにそこには明確な目的や理由などは僕には分からない。「そこに山があるから」と言い訳などできない。しかしその代わりに明確な事実があることに僕は気付く。それは、山に上って来たのは誰に強制されたわけでもない、自分自身の自由意志で上って来たという紛れもない事実だ。自分で自分にバイクで山を上る行為を課したのだ。そして山を下るのも自由意志で下るのだ。重力に引っ張られて堕ちていくのではなく(確かに下りは重力のおかげで上りよりも楽ではあるけれど)、自らの意思で日常の下界へ下っていたという紛れもない事実がそこにある。


伊須流伎比古神社
伊須流伎比古神社

それでは、シーシュポスの場合はどうであろうか。シーシュポスの巨岩自体は重力に引っ張られ、山の麓まで落ちていったが、肝心のシーシュポスはどうだろうか。刑罰を課されているという条件はあるが、作家カミュは『シーシュポスの神話』の中でこう述べている。

「彼は不条理な英雄なのである。神々に対する彼の侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責苦を彼に招いたのである。」

シーシュポスは、言語に絶する責苦を自ら招いたのである。・・・

「神々に対する侮蔑」とはどういうことか。この刑罰の肝は、受刑者が刑罰を嫌悪することにある。嫌悪感・虚無感を意識せざるをえない行為をシーシュポスに課すことである。しかしここで次のように仮定してみよう。もし仮にシーシュポスが自らの意思で、自ら進んで、落ちていった巨岩の所まで山を下り、自らの意思で巨岩を山頂まで運んでいたとしたら。・・・これでは刑罰にはならない。沈黙の中、シーシュポスは心の中で神々を哄笑しているだろう。彼は勝利者といえる。彼は運命を仕方のないものと渋々受け入れたのではなく、運命を能動的に乗り越えていることになるだろう。

「死への憎悪」とはどういうことか。人間は生まれた瞬間から死に近づいていく。生きている時の努力や成長は最終的に死によって灰と化す。そんな虚無感に無意識な時はよい。だがふとした瞬間、意識に目覚める。「努力したって、どうせ死ぬんだから」と。その瞬間に日常の繰り返しが虚しくなる。これこそ神々がシーシュポスに課そうとした刑罰だ。不幸は意識に目覚めた時に生じる。しかし「死への憎悪」とは、そんな虚しさを強要する死に対し、一歩も退かず抵抗し続けることだ。どうせいつかは死ぬんだからと、虚しさの中で努力や成長を放棄するのではなく、カミュの言葉を借りれば「死と和解することなく死ぬ」ように、最後まで努力し成長しようとすることだ。

「生への情熱」とはどういうことか。人間は生まれてきたのだ。生まされたのだ。常に受動態として。確かにそうかもしれない。シーシュポスが刑罰を受動的に課せられたのと同様に。じゃあ、今生きている自分、今存在している自分は何なのか。シーシュポスに課された刑罰のように、神々によって強制されて今を生きているのか。惰性で生きているのか。死ぬのが怖いからとりあえず生きているのか。僕はそんな生は真っ平だ御免だ。

僕は能動的に、生きたいから生きるという人間でありたいと願う。確かに最終的に死を避けることはできない。それなのに死の対極である生を生きる。これこそカミュのいう不条理だ。「世界は不条理である」それが真理だ。不条理が真理ならば、その不条理に添うのが良かろう。繰り返しの徒労に終わる日常の労苦を、自らの自由意志で行うのだ。誰かによる強制ではなく自由意志で行為するのだ。そこに本当の意味での幸福感があるように思う。シーシュポスの喜悦のように。

石動山の山頂へ向かう道
石動山の山頂へ向かう道。石段に歴史が宿る

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