One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ エスケープする炎のランナー by T2020/02/20

炎のランナー

これからお話しすることは僕の取り返しのつかない失敗談です。決して自慢話ではありません。

僕は高校時代の3年間、無遅刻無欠席でした。卒業に際し、皆勤賞とまではいかなくとも先生から何らかのお褒めの言葉を期待していました。しかし全く何もありませんでした。日頃生徒全員に対し遅刻するなとか時間を守れといった指導がなされていたにも関わらず、それを忠実に為し得た結果に対しては無視され、少々僕は憤りを感じました。

しかし年齢を重ね、ある時ふと思いました。ひょっとして自分は取り返しのつかないことをしていたのではないかと。

小学校や中学校と異なり、高校・大学と進むにつれて、学生達は学びの領域を自ら選択しその範囲を狭め掘り下げていきます。高等教育になればなるほど全ての領域をオールマイティに深めることは(たぶん)不可能です。確かに大学生になっても、講義に真面目に出ているから自分の将来は安心だ、なーんて恐らく誰も思わないであろうし、大学側が褒めてくれることを期待したとしたらそれこそ愚の骨頂です。

しかしながら一方で、世の中というものは常に責任の所在というものに神経質です。クレーマー社会や不寛容社会になればなるほど、人は責任の所在をより強く意識するようになり、その結果全体一律の配慮や指導が強化されていくようです。そしてそこには個人的選択や融通の余地がなくなっていき、社会全体が硬直化していくようです。

そう言えば、僕が小学校を卒業する時、担任の先生は僕にこういうメッセージを、それも卒業の花向けの言葉としてくださったことを今思い出します。
「全く車の来ない交差点で信号が青に変わるのをジッと待っている、君はそんなタイプだね。確かに周りの大人は誰も君を咎めないだろうし、小学校もそう指導してきた。だから君は正しい。でもそんな小学校も今日は卒業式、君は卒業だ!おめでとう。」

高校の話に戻ります。ある僕のクラスメートが授業をエスケープして映画を見に行きました。その映画は『炎のランナー』。1924年のパリオリンピックにおける実話を元にした映画です。

映画の中で、イギリスの名門ケンブリッジ大学生ハロルドエイブラハムは大学規則に反し、プロのトレーナーを自らの責任で雇い、100メートル決勝で金メダルを獲得します。一方でプロテスタント宣教師エリックリデルはイギリス選手団長の命令に反し、安息日の日曜日に行われる200メートル予選を辞退します。イギリス国民の期待のかかったオリンピックレースを辞退するのです。そんなリデルに対し英国貴族の御曹司リンゼイ卿は自らの400メートル出場権をリデルに差し出し、リデルは400メートル決勝で金メダルを獲得します。映画に登場する英国ジェントルマン達は、皆己の決断に責任を自ら担い、責任を他者や社会に転化することなく、堂々とカッコ良く世界の檜舞台を走り切っていました。

『炎のランナー』を見返すたびに、責任を担って授業をエスケープした若き日のジェントルマンを思い出します。