One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 2月26日 置かれた場所で by T2020/02/27

雪をかぶるマンサクの花
かつてノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子氏は『置かれた場所で咲きなさい』という本を残してくださいました。とても良い本だと思います。最も好きな箇所は「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルそのものです。

「置かれた場所」とは、生まれた場所や家といった一か所にしがみつくという三次元空間としての場所の意味であると僕は解釈しません。「置かれた場所」とは、自分がこの世に産み落とされた運命や条件の比喩としての言葉だと解釈します。「置かれた場所で咲きなさい」とは、産み落とされた自らの運命を自ら赦すことのように思えてきます。運命を自ら赦すところから、人間は人生に自ら責任を担う決意が生まれると思うわけです。

「こんな世の中に私は産んでくれと頼んだ覚えは無い」という子どもの言葉に親はどう弁論できるでしょうか?あなたが親だったどう弁明しますか?
この命題に答えることのできる人間は親でなく、当事者である子ども自身しかいないように僕は感じます。
子ども自身が自らの運命を赦し、運命を受け入れ、自らの人生に責任を担うことしか、その答えは無いように思えます。

渡辺和子氏の実父は、1936年2月26日いわゆる二・二六事件で悲惨な死を遂げた教育総監渡辺錠太郎氏です。渡辺氏は幼い和子氏に座卓の後ろに隠れるよう目配せしつつ43発の銃弾を受け亡くなりました。和子氏はその現場を目撃しました。

一つの厳しい赦しの人生。


私たち夫婦で辿り着いたこの里山で、自ら選んだ人生に責任を担ってベストを尽くす。現在の僕にとっての「置かれた場所」だと考えています。

「根を下へ下へと伸ばしましょう」
         『置かれた場所で咲きなさい』より