■ タケノコ料理の極意(?) by M ― 2020/05/11
一昨日の夕食で連続100食、タケノコを口にしました。今朝もタケノコを食べたのでこれで104食になります。夫も私も全く飽きることなく一月余り、タケノコを食べ続けています。
この間、私が心がけてきたことを記事にしてみます。大したことではありません。実は1日たちとも1回たりとも「今日はどんなタケノコ料理をしよう」と悩んだことがないのです。考えたのは「今日は何を食べようかなあ」ということのみです。
例えば、少し肌寒さを感じる夜、「豚汁で温まりたい」と思ったら豚汁を作るのです。にんじんやじゃがいもなどの野菜にタケノコを加えます。はたまた「頂き物のラディッシュでサラダを作ろう」となったら、タケノコを薄くスライスしてサラダに加えます。「今晩は焼肉!」という時は玉ねぎやピーマンといった定番野菜+タケノコ。「薄切りの豚肉でしゃぶしゃぶを!」となった日は、白菜などの野菜の代わりにタケノコを使います。パスタにもタケノコ、炒め物にもタケノコ、もちろんお味噌汁にも。何にでもタケノコを加えて食べ続けています。
週に1、2回はタケノコご飯、タケノコの卵とじなどタケノコがメインのメニューもありましたがそれは稀なことでした。普段通りのメニューにたっぷりあるタケノコを加え続けた結果です。
ですので実は「極意」と言えるほどのものはありません。タケノコという素材の魅力に尽きるのだと思います。主張のない味と独特の食感。このコントラストが他の食材の存在を脅かすことにならないのだと思います。かえって互いの食材の魅力が引き立つようです。
毎年繰り返されるタケノコとのお付き合い。若い頃は皮を剥いてアク抜きをすることが面倒でこんなにはできなかったと思います。タケノコ料理の一番の壁は皮を剥き下茹でするまでです。時間的ゆとりと加齢がもたらしてくれるタケノコ三昧の生活でしょう。ひょっとすると加齢こそが「タケノコ料理の極意」なのかもしれません。
■ 花を供える by T ― 2020/05/12
先日の母の日、義母の庭から水仙の球根を一杯頂きました。一杯と言っても何と!軽トラック一杯分です。普通は母に花束を送る母の日、反対に義母から花の球根を頂いたのです。
植える場所は決めています。新たな菜園の水路脇にずらーっと植える予定です。この新たな菜園の土地は、我が家を建てて下さった宮田建築さんの土地です。縁あって菜園として活用させてもらうことになりました。
宮田さんのおかげで我が家も建ち、この金山里山に縁もゆかりもない新参者の私たち夫婦が、地元に馴染む仲介役をして下さったのも宮田さんでした。
かつて、先代の棟梁の宮田善行さんがこの土地で野菜を育てておられました。畑帰りに野菜を頂いたりしました。5年程前に善行さんが亡くなられ、その後放置されていました。
田園の中、周りに建物もほとんど無く、遠方からもよく見える日当たり良好の土地。天国からもひと目で分かるように、いーーっぱいの花々、野菜が育つことを夢見て。
■ 群れるのは時代遅れになる by T ― 2020/05/13
例えば富山県美術館、5月11日より一部開館される。徐々に戻りつつある。
しかし、20名以上の団体での予約は受け付けないなど、集団行動というものに規制がある。
これは一つの例。今後、社会生活全般において、群れをなす行動は縮小していく、というか縮小していかざるを得ないと僕は予想している。
ポスト・コロナ時代において、群れをなす人間は絶滅危惧種になる。団体旅行、大宴会、大イベント、大コンペ・・・旗に従い群れる人間は時代遅れになる。
そしてポスト・コロナ時代において、自分の価値観に基づき、自分の頭で考え、自分で決定でき、自分で行動できる人間が適応していく。
価値観とは何か?価値観とは方位磁石のようなものだ。己の向きを指し示すものだ。
例えば、自分は何故今の場所に住んでいるのか(住んできたのか)?
例えば、自分は何故その宗教を信仰しているのか(信仰してきたのか)?
例えば、自分は何故今の仕事を続けているのか(続けてきたのか)?
例えば、自分は何故今のクルマに乗っているのか?
例えば、自分は何故富山県美術館に来館し、何を鑑賞しに来館したのか?
そんな何故?に対して答えるのが価値観だ。
何?答えられない!ひょっとしたら、自分は群れているのかもしれない。
群れることは、そんな価値観を不明瞭にする。というか、価値観が不明瞭だから群れるしか術を持たないとも言える。
ポスト・コロナ時代において、自分の価値観に基づき、自分の頭で考え、自分で決定し、自分で行動し、そして自分で責任を担う覚悟を持った、即ち、真の自由人が適応していく。
コロナは人類進化の枝分かれ分岐点?乗り遅れたくないよなあ。まだまだ長い人生、僕も精進しなければ。
しかし、20名以上の団体での予約は受け付けないなど、集団行動というものに規制がある。
これは一つの例。今後、社会生活全般において、群れをなす行動は縮小していく、というか縮小していかざるを得ないと僕は予想している。
ポスト・コロナ時代において、群れをなす人間は絶滅危惧種になる。団体旅行、大宴会、大イベント、大コンペ・・・旗に従い群れる人間は時代遅れになる。
そしてポスト・コロナ時代において、自分の価値観に基づき、自分の頭で考え、自分で決定でき、自分で行動できる人間が適応していく。
価値観とは何か?価値観とは方位磁石のようなものだ。己の向きを指し示すものだ。
例えば、自分は何故今の場所に住んでいるのか(住んできたのか)?
例えば、自分は何故その宗教を信仰しているのか(信仰してきたのか)?
例えば、自分は何故今の仕事を続けているのか(続けてきたのか)?
例えば、自分は何故今のクルマに乗っているのか?
例えば、自分は何故富山県美術館に来館し、何を鑑賞しに来館したのか?
そんな何故?に対して答えるのが価値観だ。
何?答えられない!ひょっとしたら、自分は群れているのかもしれない。
群れることは、そんな価値観を不明瞭にする。というか、価値観が不明瞭だから群れるしか術を持たないとも言える。
ポスト・コロナ時代において、自分の価値観に基づき、自分の頭で考え、自分で決定し、自分で行動し、そして自分で責任を担う覚悟を持った、即ち、真の自由人が適応していく。
コロナは人類進化の枝分かれ分岐点?乗り遅れたくないよなあ。まだまだ長い人生、僕も精進しなければ。
■ 花をみて思うこと by M ― 2020/05/14
昨日、1年前のブログの記事を久しぶりに読みました。初夏の庭に咲く花を切り、部屋のあちらこちらに飾る日常について書いていました。
新型コロナウイルスの感染拡大で不安が助長されている昨今、我が家では1年前と変わらず初夏の花が部屋を飾っています。気持ちが華やぎます。
ポスト・コロナの時代になっても庭の花がもたらす歓びは変わらないことでしょう。変わらないもの、変わらないことがあるのは大きな安心になります。変わらないものを身近に持つことで私は救われている感じがします。
庭に咲く花の美しさに驚くことは茶飯事です。それぞれの置かれた場所で最大限輝いているように見えます。私にできるのは草をとることくらいです。
植物の歴史は人類の比ではありません。困難な事態もあったに違いありません。困難な中で変化しながら、一方で頑なに変化しない部分もありながら、環境の変化を受け止め、歴史を積んできているのでしょう。その長ーい歴史も含み、植物は輝いているようです。
新型コロナウイルスの感染拡大で不安が助長されている昨今、我が家では1年前と変わらず初夏の花が部屋を飾っています。気持ちが華やぎます。
ポスト・コロナの時代になっても庭の花がもたらす歓びは変わらないことでしょう。変わらないもの、変わらないことがあるのは大きな安心になります。変わらないものを身近に持つことで私は救われている感じがします。
庭に咲く花の美しさに驚くことは茶飯事です。それぞれの置かれた場所で最大限輝いているように見えます。私にできるのは草をとることくらいです。
植物の歴史は人類の比ではありません。困難な事態もあったに違いありません。困難な中で変化しながら、一方で頑なに変化しない部分もありながら、環境の変化を受け止め、歴史を積んできているのでしょう。その長ーい歴史も含み、植物は輝いているようです。
■ 天然の虫除け by T ― 2020/05/15
庭の雑木林が成長するにつれて、野鳥たちが来てくれるようになりました。
朝、ダイニングテーブルに近いコナラの枝に、ヒヨドリらしき鳥が留まり、毛虫にようなものを食べていました。思わず撮影を。
これこそ、自然界のバランス、ホメオシタシス(恒常性)です。ある種が爆発的に繁殖するのを他の種が抑制する。言わば「神の見えざる手」と言えましょう。
人為的な薬剤散布を多用すると、害虫のみならず益虫や天敵も駆除してしまい、自然界のバランスが崩れます。しまいには毎回薬剤散布をしなくてはいけなくなり、いわば薬漬けの弱った樹木となります。そんな樹木では野鳥たちも敬遠することでしょう。
総じて、害虫が付きやすい樹木は弱った樹木が多いようです。葉っぱも薄く食べやすいのです。そんな樹木が攻撃されます。これも「神の見えざる手」。
樹木そのものの健康を維持し、害虫益虫清濁合わせ飲み、自然界のバランスを維持した天然の虫除けが、究極の虫除けですね。
■ 薪ストーブは焼却炉じゃない。 by T ― 2020/05/16
2001年に薪ストーブ生活を開始して毎年5月に煙突掃除と薪ストーブ清掃を行ってきました。今年は煙突のオーバーホールを業者さんに依頼しているため、自分での煙突掃除を行いません。20年目にして初めてのこと。よって今年は薪ストーブ本体の清掃のみ。
ストーブの天板や扉を外して、中の灰をかき出します。人によっては次回ストーブに火を入れる際に灰が残っていた方がよいということで、あえて灰を全てかき出さない人もいます。いわゆる「アッシュ・ベッド(灰の寝床)」です。灰はストーブ本体を保護する役目も担うからです。
しかし僕は灰を全てかき出します。炉内の亀裂や故障を点検するためと、灰が残っていると湿気を吸収して錆を生じさせるからです。その代わり、かき出した灰を全て廃棄せず、一部保管しておきます。10月になって火入れする直前に灰を戻しアッシュ・ベッドを作るわけです。
仕上げにポリッシュで磨きをかけます。
これで今年の薪ストーブ清掃は終了ではありません。今後ガスケット交換を行う予定です。ガスケットとは扉等の密閉を高めるパッキンのようなパーツです。
薪ストーブは綺麗でなければなりません。何故なら薪ストーブは焼却炉じゃないからです。
■ 爆買いする人と爆買いさせる人 by T ― 2020/05/17
緊急事態宣言が解除され経済活動が徐々に再開されてくると、現金10万円給付も引き金となり、買い物や外食などお金を使いたくて使いたくて、ウズウズしていた気持ちが一気に爆発して、爆買い現象が起る・・とあなたは思いますか?
僕は何とも言えません。そんな人もいるであろうし、そうじゃない人もいるであろうし。
コロナで経済的にキツい人もいるであろうし、そうじゃない人もいるであろうし。
ところで、あなたにとってお金とは何ですか?
お金は使うもの?それとも、お金は次なる危機に備え貯めておくもの?それとも・・・
世の中には「お金は働いてもらうもの」と認識している人たちが存在します。
可愛い子には旅をさせろ!の如く、世の中にお金を流し(キャッシュフロー)、株や不動産などの運用投資によって、巡り巡ってお金にお金を稼いでもらうというわけです。
ところで「お金は働いてもらうものと認識している人」にとって、株や不動産の運用利益を高めるために、「お金は使うものと認識している人」にドンドンお金を消費浪費してもらい、市場を活性化させる必要があります。「お金は使うものと認識している人」にストレス発散買いや自分にご褒美買いをバンバンしてもらい、経済を成長させる必要があります。
且つ
一方で「お金は働いてもらうものと認識している人」は、自らはお金を極力使わず、欲望をストイックに抑制し、粛々とお金を運用投資し続けるわけです。そんな投資家という人種は、意外と地味な人種のようです。
さあ、緊急事態宣言が解除され経済活動が徐々に再開されます。あなたにとってお金とは何ですか?
僕ですか?僕にとってお金とは、大好物です。
写真は、マリーゴールド。トマトのコンパニオンプランツとしての投資です。
■ 里山に帰る庭 by T ― 2020/05/18
この時期、金山里山ではタニウツギの花が満開です。林道沿いの法面にピンク色の小さなラッパ型の花が咲き乱れています。
我が家の雑木林の斜面にもタニウツギが咲いています。
11年前、景観デザイン業者「リイフス」さんに、「ドングリの転がる庭」というキャッチフレーズで、我が家の雑木庭を整備してもらいました。敷地全てを植栽したわけでなく、自生の樹木も生かしながら整備しました。その時、コナラやクヌギに混ざってタニウツギやエゴノキ、コブシなどを植栽樹木の中に取り込んで下さいました。
ところが、自生の樹木の中にはタニウツギやエゴノキは既に敷地内に存在していました。コナラやコブシも裏山を見渡せばいっぱいありました。近所の人には「直ぐ近くの山でよく見かける雑木を、何でわざわざ庭に植えるの?どうせお金を出すなら、庭木らしい木を植えればよいのに。何でまた、フツーの雑木を?」と言われました。
特に反論しませんでしたが、私たちはフツーの雑木庭こそが良かったと今でも思っています。また、リイフスさんのセンスにも敬意を表しています。
私たちがこの世を去った後、我が家の雑木庭は里山の森に委ねたいと思っています。里山の森に自然と溶け込んでいき、子孫を増やしつつ、最終的に庭が里山の一部になってくれれば本望です。
そのために、庭の世話もしつつ、金山里山の会を通じて、帰るべき里山の保全にも参加させてもらっています。
我が家の雑木林の斜面にもタニウツギが咲いています。
11年前、景観デザイン業者「リイフス」さんに、「ドングリの転がる庭」というキャッチフレーズで、我が家の雑木庭を整備してもらいました。敷地全てを植栽したわけでなく、自生の樹木も生かしながら整備しました。その時、コナラやクヌギに混ざってタニウツギやエゴノキ、コブシなどを植栽樹木の中に取り込んで下さいました。
ところが、自生の樹木の中にはタニウツギやエゴノキは既に敷地内に存在していました。コナラやコブシも裏山を見渡せばいっぱいありました。近所の人には「直ぐ近くの山でよく見かける雑木を、何でわざわざ庭に植えるの?どうせお金を出すなら、庭木らしい木を植えればよいのに。何でまた、フツーの雑木を?」と言われました。
特に反論しませんでしたが、私たちはフツーの雑木庭こそが良かったと今でも思っています。また、リイフスさんのセンスにも敬意を表しています。
私たちがこの世を去った後、我が家の雑木庭は里山の森に委ねたいと思っています。里山の森に自然と溶け込んでいき、子孫を増やしつつ、最終的に庭が里山の一部になってくれれば本望です。
そのために、庭の世話もしつつ、金山里山の会を通じて、帰るべき里山の保全にも参加させてもらっています。
■ 緑の指 by T ― 2020/05/19
義母の庭から時々花木を頂きます。我が家の庭に植栽された花々の半分以上は、義母が育てたり増やしたりした花々です。中には、ある日義母がユズを食べ、そのユズの種を土に埋めておいたら芽が出たというユズの木もあります。現在は僕の身長を越えています。
義母から頂いた花木は、不思議と根の活着率が高いのです。その理由は定かではありませんが、僕はグリーンフィンガーズ(緑の指)の仕業だと信じています。グリーンフィンガーズとは、その人に触れられた植物は不思議とイキイキしてくる、そんな優秀な園芸家のことで、「グリーンフィンガーズを持つ人」と表現します。
義母の庭は足の踏み場も無いほど植物が育っています。剪定されたアジサイやツバキの枝が可愛そうな顔をしていたからと、土に挿しておいたら根付いたという風に、次から次へと増えるからです。おそらくグリーンフィンガーズの持ち主は、植物たちの声を聞き分けることができるのでしょう。
次から次へと増えるだけでなく、増えた花々を義母はとても気前良く株分けしてくれます。それはあたかも、株分けされて子孫を遠く広く拡散繁殖していきたいという花々の声を聞き取っているかのようです。
グリーンフィンガーズは直感的に知っているのでしょう。
「最終的に後世に残っていくものは、自分が集めたものでなく、自分が与えたものであることを。」
そんな「与える緑の指」を、僕も持ちたいと切に思います。
■ 新しい生活様式はいつもの様式 by M ― 2020/05/20
新しい生活様式が厚生労働省から提示されて2週間。改めて詳細を見てみたところ、意外にも我が家のこれまでの様式に当てはまる事項が多く驚いています。
とりわけ「3 日常生活の各場面別の生活様式」の項では4半世紀近く続いているスタイルもあり、吹き出しそうになりました。
例えば買い物での「通販も利用」。値の張る服や履き物は実店舗で購入しますが、年に1回ほどでしょうか。それ以外の衣類、食品、日用雑貨等はほぼ通信販売を利用しています。ブログでも時々記事にしますがスーパーマーケットへ行くのは年に数回。
また、公共機関の利用に関しても「徒歩や自転車利用も併用する」とありますが、以前から併用していました!
そして食事の項の「対面でなく横並びで座ろう」についても我が家では夕食以外は横並びでいただいています。庭の木々を眺め、鳥が飛び交う姿を目で追いながらのひと時は何物にも変えがたい時間です。以前、夫が記事にしていました。
http://onesway.asablo.jp/blog/2020/05/07/9243877
多人数での会食は元々苦手でしたから、新しい生活スタイル、私には親和性が高そうです。
これまでの人生で「変わっているね」と言われることが多かった私ですが、新しい生活様式が定着した暁には「普通」の人に近づくかもしれません。
「変わっている」と言われて悩んでいた若い頃を思い出し、「普通」とは何なのかに想いを巡らせることになりそうです。
とりわけ「3 日常生活の各場面別の生活様式」の項では4半世紀近く続いているスタイルもあり、吹き出しそうになりました。
例えば買い物での「通販も利用」。値の張る服や履き物は実店舗で購入しますが、年に1回ほどでしょうか。それ以外の衣類、食品、日用雑貨等はほぼ通信販売を利用しています。ブログでも時々記事にしますがスーパーマーケットへ行くのは年に数回。
また、公共機関の利用に関しても「徒歩や自転車利用も併用する」とありますが、以前から併用していました!
そして食事の項の「対面でなく横並びで座ろう」についても我が家では夕食以外は横並びでいただいています。庭の木々を眺め、鳥が飛び交う姿を目で追いながらのひと時は何物にも変えがたい時間です。以前、夫が記事にしていました。
http://onesway.asablo.jp/blog/2020/05/07/9243877
多人数での会食は元々苦手でしたから、新しい生活スタイル、私には親和性が高そうです。
これまでの人生で「変わっているね」と言われることが多かった私ですが、新しい生活様式が定着した暁には「普通」の人に近づくかもしれません。
「変わっている」と言われて悩んでいた若い頃を思い出し、「普通」とは何なのかに想いを巡らせることになりそうです。