■ 山の如し by T ― 2018/07/21
一昨日は木曜日、金山里山の会の作業日。薪作り用のコナラの木を伐採して森林整備活動をしました。
当然ながら、薪は生存していくための暖房用、食料調理用の燃料です。薪作りという労働は生命を維持していきたいという生理的欲求を満たす労働でありますが、一方、空気の綺麗な気持ちの良い森の中で作業していると、単に生理的欲求を満たすだけではなく、自然に溶け込み、自然の循環に組み込まれていくようなフロー状態(恍惚状態)を経験することがあります。自分の過去・現在・未来を通して、又、生も死も含めて「これで良し」と肯定できる瞬間です。
僕は常々、何故生きるのかという問いに対し、「生きる目的、それは生き続けること、生存し続けること」と答えます。生命維持といった生理的欲求が、すなわち自己超越した自己実現欲求に合致すること、それが生きる目的と最近は認識しています。
アブラハム・マズローは人間の欲求を5段階に区分し上下階級を設定し、ピラミッド型と捉えました。そのピラミッド型においては、生命維持といった生理的欲求は動物として最下位の欲求であり、人間は最上位の自己実現欲求を満たす方向に進むと仮定しました。
僕は自己実現欲求を満たす方向を歩んでいたと思いきや、生理的欲求に戻ってきた。ピラミッド型として上へ向かっていると思いきや、あたかも円環を成すように戻ってきた。それは禅の十牛図のようでもあります。でもそこには決して不快な感覚はありません。人間の欲求やそれに基づく行動に上下貴賎の区別が不明瞭である点がむしろ気持ち良い。瑣末なコンプレックスや社会的承認に執着する公的自己意識の不自由さから解放される清々しさがあります。
その清々しさ、自由感とは、自己のアイデンティティを何とかして保とうといったメタ認知からの開放感のようでもあります。
定年退職したら何もすることがなく、認知症予防や社会にコミットせねばといった義務感から、半ば強引に趣味やボランティア等に自分を追い込むといった話を時々耳にします。
威厳ある人生の後半、何かに急き立てられ、忙しなく徘徊することなく、唯、堂々と生存する。僕はそんな後半生を過ごしたい。動かざるようで動いている山のように。
写真は成長著しい我が家のケヤキです。
当然ながら、薪は生存していくための暖房用、食料調理用の燃料です。薪作りという労働は生命を維持していきたいという生理的欲求を満たす労働でありますが、一方、空気の綺麗な気持ちの良い森の中で作業していると、単に生理的欲求を満たすだけではなく、自然に溶け込み、自然の循環に組み込まれていくようなフロー状態(恍惚状態)を経験することがあります。自分の過去・現在・未来を通して、又、生も死も含めて「これで良し」と肯定できる瞬間です。
僕は常々、何故生きるのかという問いに対し、「生きる目的、それは生き続けること、生存し続けること」と答えます。生命維持といった生理的欲求が、すなわち自己超越した自己実現欲求に合致すること、それが生きる目的と最近は認識しています。
アブラハム・マズローは人間の欲求を5段階に区分し上下階級を設定し、ピラミッド型と捉えました。そのピラミッド型においては、生命維持といった生理的欲求は動物として最下位の欲求であり、人間は最上位の自己実現欲求を満たす方向に進むと仮定しました。
僕は自己実現欲求を満たす方向を歩んでいたと思いきや、生理的欲求に戻ってきた。ピラミッド型として上へ向かっていると思いきや、あたかも円環を成すように戻ってきた。それは禅の十牛図のようでもあります。でもそこには決して不快な感覚はありません。人間の欲求やそれに基づく行動に上下貴賎の区別が不明瞭である点がむしろ気持ち良い。瑣末なコンプレックスや社会的承認に執着する公的自己意識の不自由さから解放される清々しさがあります。
その清々しさ、自由感とは、自己のアイデンティティを何とかして保とうといったメタ認知からの開放感のようでもあります。
定年退職したら何もすることがなく、認知症予防や社会にコミットせねばといった義務感から、半ば強引に趣味やボランティア等に自分を追い込むといった話を時々耳にします。
威厳ある人生の後半、何かに急き立てられ、忙しなく徘徊することなく、唯、堂々と生存する。僕はそんな後半生を過ごしたい。動かざるようで動いている山のように。
写真は成長著しい我が家のケヤキです。