One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ イトスギのある風景 by T2018/07/22

イトスギのある風景
イトスギを生垣にする庭を時々見かけます。俗に言うコニファーです。コニファーとは針葉樹の総称です。

針葉樹は裸子植物のため果実をつけません。
「もし汝があまた持つならば、ナツメヤシのごとく人に施すべし。
もし持たざれば、イトスギのごとく自由の民となるべし。」シェイク・サーディ

イトスギはイエスキリストが磔にされた十字架の材だったという説があります。事実、キリスト教ではお墓の近くに、真っ直ぐ天に登るようなイトスギを植えることがあるようです。

カリフォルニア、モントレー近郊では、モントレーイトスギが有名です。17マイルドライブには、ローンサイプレスという一本立ちのイトスギが観光スポットになっています。アメリカ人は徒党を組んで群れを成すよりも、独立自尊を尊ぶことの象徴だからでしょうか。

我が家の庭にイトスギは一本も植わっていません。その代わりに「イトスギのある風景」というタイトルのドライポイント画があります。具象画か抽象画かと問われれば具象画ですが、もう一歩のところで抽象画にならず、何とか具象画に留まっているような絵画です。イタリアナポリ近郊の風景を描いているようですが、土を掘って行けば第2第3のポンペイ遺跡が発掘されるかのようです。生と死が同時空間に存在するかのようです。

話は変わりますが、僕は極楽往生という言葉が大嫌いです。往き(つまり死んで)極楽に生まれるなんていう姿勢には、現実をチャラにし、逃避した弱体化人間性を感じるからです。

そもそも親鸞は言ったそうです。
「死後のことはワシャ分からん。死後のことを考える暇があったら、どう生きるかを考えようではないか。」

親鸞は浄土真宗の開祖と言われていますが、そもそも親鸞は浄土真宗の信者ではありません。彼は浄土宗の信者でした。

後世の者が、親鸞の墓を作り、浄土真宗という宗派を作り、親鸞を開祖に仕立て上げ、終いには、死ぬことを還ることと逆転発想し、死後に重きを置くようになったのでしょうか。

親鸞はギリギリのところで具象の世界つまりこの現実の世界に踏みとどまり、安易に空想的抽象の死後世界に逃げることなく、常に生きる道を探し続けた求道者、非僧非俗の人間のようです。僕は後世の浄土真宗には疑問を持ちますが、人間親鸞には敬意を感じます。

イトスギは、花言葉として死をイメージさせつつも、現実世界にしっかり堂々と生きています。