One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ 不思議な信仰心 by T2019/09/15

僕の理解できないことがある。それは宗教における信仰心である。

例えば富山県では仏教、特に浄土真宗を信仰している人が多い。しかし何故浄土真宗を信仰しているのか、真宗のどこに心酔しているのか質問しても、明確に語ってくれた人に出会ったことが現時点において一人もいない。

それに、結婚して配偶者の実家に同居した人の中には、その実家で信仰されている宗派にいとも簡単に宗派替えする人も多い。これもまことに不思議なことである。

ところで話は変わるが、ドイツではナチスファシズムの反省から、自分は何故そう考えるのかの根拠を明確にするよう努めているそうである。襟を正される感がある。

確かにそうである。「よく分からないけどみんながそう言うから自分もそう思う」という風潮は、かなり危険なレベルだと思うからである。

さて、自分の話。僕は親鸞の思想哲学をとても肯定している。その根拠は、言語というものに対して絶対的信頼を置いているからである。仏像や金ピカの仏壇なんかでなく、南無阿弥陀仏に代表される「言葉」を通じた論理性・合理性を絶対的に信頼しているという点である。

ちなみに親鸞は浄土真宗の開祖と言われているが、親鸞本人は法然の弟子であった。故に彼は浄土真宗を信仰したことは一秒たりとも無い。イエスがキリスト教信者でなくユダヤ教徒だったのと同様である。ブッダだってヒンドゥ教徒であった。

ともかくも、言葉を通じて、論理の手堅さに沿って、つまり根拠に基づいて、自分の考えを明確にしていくことはとても大切なことだと思う。極限まで言葉を通じて考え抜いて、それでも如何ともし難いゾーンに入らざるを得なかったであろう親鸞は、究極的に南無阿弥陀仏という六文字の表象言語に全てを委ねたのだろうと推察する。理性と言語に基づく合理性の限界を知り抜きつつ、それでも最後の最後まで言語の力を信頼していたといえる。

昨日、越中の国(現在の富山県)において浄土真宗布教の出発点となった場所を探しに富山県南砺市の八乙女山の林道を自転車で上った。眼下の井波瑞泉寺は豪勢に賑わいを見せていたが、その原点は深林青苔孤独な世界だった。

確かにそれもそうである。信仰心とは孤独個人の問題である。

追伸 : 言語の力を信頼するため、写真は掲載しません。