One’s Way[ワンズウェイ]のブログでは、里山暮らしのあれこれを綴ります。ヘンリー・ デイヴィッド・ソロー の影響を受け、エシカルな暮らしを追求中。薪ストーブを暮らしの核とし、菜園、ガーデニング、サイクリング、ランニングなどを楽しんでします。

■ チャック・ベリーとマディー・ウォーターズ by T2017/03/26

大工の宮田さん。2000年夏
チャック・ベリーが亡くなりました。ロック誕生に直接関係した最後の生き証人だったチャック。ボー・ディトリー、BBキング、長寿のパイオニア達がポツポツと去っていく中で、チャック・ベリーだけは死に対してさえもロック的に抵抗し続ける存在、つまり僕には永遠に死なない存在に感じられていました。

我が家を新築していた西暦2000年の夏。それはそれは猛暑でした。日焼けした大工の宮田さんの風貌や所作からふとチャックベリーを思い浮かべたことを今でも覚えています。そしてコンクリート施工をされていた野手さんはさしずめシカゴブルーズの巨人、マディ・ウォーターズ。僕も暑くてフラフラした中でご機嫌な気分になっていました。

作業場にはラジオがあって、毎週月曜日と火曜日の午後1時過ぎには、我が家の設計をしてくださった天野さんが喋って曲をかけていました。

夢のような夏の思い出。永遠に存在し続ける思い出。

死と和解することなく死んだチャック・ベリーを偲びます。

加えて、マディ・ウォーターズのバンドでハーモニカを演奏していたジェイムズ・コットンも先日亡くなりました。哀悼。

■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅-口絵-2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

 

さらばもう一度、アイルランド回帰の旅

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“Are you a competitor?”

“Yes, I am.”

 

かつて、僕はある人物に質問され、思わず答えてしまった。その人物というのは、Sean Kelly(ショーン・ケリー)。1980年代から90年代前半にかけて自転車ロードレース界で活躍したアイルランド出身、往年の大選手だ。世界選手権とフランドル一周レースには勝つことはできなかったけど、ヨーロッパの名だたるクラシックレースやグランツールで勝利した、まさにレジェンド。そのケリーに「君は選手か?」と突然質問され、僕はとっさに「は、はい、そうです!」と答えてしまった。熟慮することもなく、反射的に答えてしまったんだ。

 

何はともあれ、そう答えてしまった以上、僕は自称「死ぬまで選手の会」のメンバーになることに決めた。時は20世紀末までさかのぼる。

 

木漏れ日の中を走る

木漏れ日の中を走る[1995年、キラーニー国立公園]


ショーン・ケリーと記念撮影

ショーン・ケリーと記念撮影。チャリティーサイクリングのポスターの写真は1992年「ミラノ・サンレモ」のゴールシーン[1995年、キャリック・オン・シュア]


十字部を円環でつないだケルト十字架

十字部を円環でつないだ十字架。ハイクロスともいう[1995年、アラン島]


コネマラ国立公園へ

コネマラ国立公園へ[2005年、クリフドゥン]


道端で見かけたホイールモニュメント

道端で見かけたホイールモニュメント[1995年、キャリック・オン・シュア]

 



■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その1:Summer in 1995-2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

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■ Summer in 1995

1995年、夏。僕は妻と一緒に20日間、アイルランドを旅した。
鉄道、バス、レンタカー、そして自転車、その時その時最適な交通手段を乗り継いで気ままな旅をした。別に一つの手段にこだわる必要もなかった。というより、マイバイクやマイカーなどを持ち歩かない身軽な旅をしたかった。

当時、僕らの旅のスタイルは、飛行機内に持ち込める範囲内の手荷物で旅するものだった。自転車輪行袋は無論、スーツケースさえ持ちたくない。当時僕は、東京上野にあった片桐さんのキスリングザック一つで、海外も旅をしていた。たくさんの物を持っていると、いろいろなことに気を遣わなくてはならない。

例えば大切な自転車だったら、盗難防止のため施錠しなければならない。でもそれは、鍵をかけなきゃ不安になる環境に自分自身を繋ぎ止めておかねばならないということかもしれない。レンタルだったら鍵をかけなくてもいいというわけではないけれど。というわけで、この旅行では自転車を3回レンタルした。



煙突のある白い家と丘
煙突のある白い家と丘[1995年、キラーニー国立公園]








■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その2:Aran Islands -2017/03/26

■ Aran Islands
第1回目のレンタルは、アラン島にて。劇作家J.M.シングの紀行エッセイで有名な、石と草ばかりの小さな島である。そもそもアイルランド本島はヨーロッパの西の果て。かのローマ帝国にさえ無視された辺境の地。そのさらに西にアラン島は位置する。

十字部を円環でつないだケルト十字架

十字部を円環でつないだ十字架。ハイクロスともいう[1995年、アラン島]


島の船着場近くで営業していたレンタルバイクショップにて、僕たち夫婦は青いラレーのMTBを借りた。代々アラン島の人々は岩盤を打ち砕いてジャガイモ畑を広げた。さらに、僅かしかない貴重な土を海から吹き寄せる偏西風によって吹き飛ばされないように、石垣を築いてきた。そして痩せた土を肥やすために、草地に牛や羊を放した。点在する白い家は石積みの漆喰塗りで、草葺屋根の家もあった。

そこに在る材料で作られているわけだ。生物は生まれながらにして規制された条件内で生きていかねばならない。自分自身に同情している暇は無いんだと叱咤されるような光景だった。

岩盤の隙間からスミレに似た可憐な花が顔を覗かせ、逞しさと同時に危うさをも含んでいた。僕たちは石敷きの道をゆっくり走った。ここではMTBという道具さえ複雑な精密機械に見えてくる。まだまだ無駄を省きシェイプアップが必要だ。


大西洋の風光明媚な高台に巨大ストーンサークル「ドン・エンガス」があった。僕たちはそこに上った。そこは背後に約100メートルの断崖絶壁をひかえた、正に背水の陣。

気の遠くなるくらいに積み重ねられた石の一つ一つと、海から吹き上げる潮風が相交えて口笛を吹いた。僕はそのブルーズに曲名をつけた。『That may be so, but…“だからどうした”』と。

17世紀、イギリスからやって来た残虐な侵略者クロムウェル-英国では清教徒革命の英雄とされている-が、アラン島同様に辺境の地、アイルランド西部のバレン高原を攻めた時、「人を吊るす木も無く、生き埋めにする土も無い」と言いやがったそうだ。

”That may be so, but still I have to. “(だからといっても、せねばならない時があるんだ)

口笛に乗せて、そんなブルーズが聴こえてきた。

アラン島から船で本島にある町ゴルウェー(Galway)に戻った。ゴルウェーのツーリスト・インフォメーションにあった絵葉書に、こんな意味のことが書かれてあった。

「人間の生きる目的は、一体何なの?」

「そうね、神様はどうして人間をこの世にお創りになったか知ってる?それはね、神様がおっしゃるには、ほんのジョークだったそうよ。」

そうか、そうなんだ。僕は僕に忠実に生きればいいんだと思った。



古代遺跡「ドン・エンガス」に上る
古代遺跡「ドン・エンガス」に上がる。背後は大西洋[1995年、アラン島]


■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その3:Killarney -2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

■ Killarney
交通博物館に展示されていたファウスト・コッピのピストバイク
交通博物館に展示されていたファウスト・コッピのピストバイク[1995年、キラーニー]

キラーニーという町で、二度目のレンタルバイク。
レンタルバイクの不満な点を挙げるとすれば、シューズとペダルを固定することができないことだ。まあ、ペダルくらいならば日本からマイ・ペダルだけを持参して、現地で交換してもいいんだけど。

ペダルに関して、ショーン・ケリーの話を一つ。彼はビンディングペダルが普及しても、トゥクリップ・ストラップペダル、そしてWレバー変速にこだわっていた。1993年と1994年の現役最後の2シーズンだけは、ビンディングペダル及びデュアルコントロールレバーだったが、彼はメジャープロレーサ集団の中で、オールドスタイルを貫いた最後のレーサーだった。

キラーニー国立公園の中を、レンタルMTBで走った。ダンロー渓谷の最初の上りは石と草のアラン島に似た風景が続いたが、下り始めると渓流と緑豊かな森林の中を走ることになった。ここはアイルランド島の南西部で、落葉樹の多い温帯域にあるのだ。小道にはガードレールや標識も無く、渓流はコンクリートで護岸工事されていない。

木漏れ日の中を走る

木漏れ日の中を走る[1995年、キラーニー国立公園]


朝、B&Bを出発した時は、いかにもアイルランドらしい霧雨が降っていたが、昼近くになると木立の中に木漏れ日が差し込む天気になってきた。途中のクリークで自転車と足を洗った。休憩後、しばらく走ると道に迷い、小さな集落に入り込んだ。辺りは泥炭を燃やした特有の匂いと煙が立ち込めていて、あたかも魔女の森で火あぶりでも行われているかのようだった。おまけに後ろを走っていたイタリア人カップルも巻き添えにしてしまった。

彼らは、道端にいた泣きそうな顔のおじさんに「ボート乗り場はどこか?」を尋ねていた。おじさんはさらに泣きそうな顔をして、何やら答えていた、カップルには通じないみたいだった。彼らは諦めて来た道を急いで戻っていった。

僕はおじさんに言った。

「彼らはボートの時間が迫っていたようですね。」

するとおじさんは、

「ボートの出発時間だって?時間なんて、あそこに立てかけてある錆びた自転車みたいなもんさ。欲しけりゃあげるよ。」(ごめんなさい。僕も聞き取れなかったので、これは完全な想像です。)








■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その4:Carrick-on-Suir -2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

■ Carrick-on-Suir

アイルランド鉄道、二等車両の中で、車掌さんに、どう発音しても「キャリック・オン・シュア」を聞き取ってもらえなかった。「キャリック・オン・シュア(Carric-on-Suir)」は、ショーン・ケリーの故郷、アイルランド南部にある町だ。

車掌さんは観光地でもない田舎町にアジア系の人間が行くなんて想像できなかったのだろう。コミュニケーションは時として言語そのものよりも、非言語的メッセージの方がいかに重要かということだろう。

とにかく、おかげで何度も「キャリック・オン・シュア」と発音練習する羽目になり、しまいには「キャリック・オン・シュア」という固有名詞が、あるカントリーソングの冒頭の歌詞のように、その音色を聴いただけで郷愁を誘うような、そんな錯覚に陥ってしまった。

中世の城壁の生き残りのような、ひなびたキャリック・オン・シュア駅のプラットホームに列車が到着した。ところが列車のドアが開かない。押しても引いても駄目だ。「まだ発車しないでくれよ」と祈りながら、隣の車両のドアまで走り、何とか降りることができた。

「やれやれ、せっかく感動の第一歩をじっくりと味わおうと思っていたのに!」

その列車は僕たちの慌て様を嘲るように、そのあと5分ほどホームに停車していた。旅にはハプニングがつきもの。思い通りには事は運ばない。外は朝の雨が上がっていた。正午近くだったので、レンガ壁を這うアイビーが露を払い、アイルランドの大気に熱気を織り込み始めていた。


キスリングザックとキャッリク・オン・シュア駅
キスリングザックとキャリック・オン・シュア駅[1995年、キャリック・オン・シュア]


■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その5:OK SPORTS -2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

■ OK SPORTS

町を歩き始めてしばらくすると、交差点に「SEAN KELLY SQUARE」という標識があった。その方角へ進むと町の中心の広場に出た。色とりどりのハンギングバスケットで飾られた小さな広場だ。

壁にさりげなく「SEAN KELLY SQUARE」とプレートが打ち付けてあった。そのスクエアーの一角、フィッシュ&チップス屋さんの横を一方通行のメインストリートに入って、しばらく歩いた。目的は自転車屋さん、もしくはレンタルバイクショップを見つけることだった。

”OK SPORTS”という看板のスポーツショップを見つけた。店の前には何台もの自転車が立てかけてあった。そしてショーウインドーには、何と懐かしいデュラエースAXのディレイラーセットが新品で飾られ販売されていた。


OKスポーツの店構え
OKスポーツの店構え[1995年、キャリック・オン・シュア]

「この国じゃ、みんな自分で自分の時間を決めるのさ。」

どこかで、魔女の森の泣き顔をしたおじさんが囁いたような気がした。
「ハロー」と言ってお店に入ると、そこには白色のカスクの隣にテニスラケットも一緒くたに陳列されていた。鬱蒼とした灰色の髭をたくわえた店主らしき人が、涼しく微笑んでくれた。

「どこから?」

「日本から来ました。」

「そうか、地震大変だったなあ。」(1995年1月の阪神淡路大震災のこと)

「ありがとう。ところで、僕たちはケリーの故郷を一目見ようと訪問したんです。」

「そうか、そうか。君たちは歩きだね。彼は田舎に住んでいるんだ。今日は家にいるだろう。ウーン、電話してみよう。」

「えっ!」・・・(しばらく待つ)

「5分ほど待ちなさい。今来てくれるから。」

「えーっ!!」

10分ほど待った。
その間、胸の高鳴りを抑えつつ考え込んだ。こんな展開があるのだろうか。本当に旅にはハプニングがつきもの。でもこんなハプニングだったら何度遭遇してもいい。と興奮しつつ、同時に怖気づいている自分にも気付いた。

僕にとってショーン・ケリーは憧れ。その気持ちがはるばる僕をアイルランドまで導いた理由の一つであった。しかし僕たちがキャリック・オン・シュアを訪れたのは、ショーン・ケリーを探すためではない。それはプライバシーに関わることだからだ。あくまで僕たちは一人の偉大なレーサーを育んだ大地を見たかったからだ。

ショーン・ケリーはプロトン(ロードレースの集団)の中では決して誰をも恐れなかった。彼は現役を引退したが、彼に勇敢さと自立の精神を叩き込んだ故郷は生き続けているに違いない。

日々目にする風景は、そこに住む人間の生き方に大きな影響を与えるはず。旅人としての僕たちには、永遠にその風景に浸って暮らすことはできないけれど、たとえ僅かな時間でも、その風景を共有できれば幸せだ。これこそ僕たちの求めていたものだ。

ショップの内部からショーウインドーに飾られたデュラエースAXのディレイラーセットを眺めていると、店の前に黒塗りのメルセデスベンツが止まった。そして、ジーンズにTシャツ姿でショーン・ケリーが降りてきた。

動作は機敏だった。Tシャツには、「ケリーと走ろう。アイルランドの視覚障害者のためのチャリティ・サイクリング」と書かれていた。ケリーと握手をした。彼の掌はザラザラしていて、握力が強かった。店主がケリーに僕たちのことを紹介してくれた。僕はケリーに話しかけた。

”Milan-San Remo 1992.“(1992年のミラノ・サンレモ)

僕の伝えたかったことはそれだけだった。これがチャンスと言わんばかりに、根掘り葉掘りしゃべる必要はなかった。というのは嘘で、正直言うと僕は英会話が下手。うまくしゃべることができなかったのだ。それに完全に舞い上がっていた。何と情けないことか!

でも、そんな僕に対し、ケリーもにっこり微笑んで一言、極めて簡潔に応えてくれた。

”Poggio.“(ポッジオ)

嬉しかった。ケリーの肉声の「Poggio」、それで僕には充分だった。


「ミラノ・サンレモ」とは、毎年三月に開催される、イタリアに春の訪れを告げる自転車クラッシックレース。第一回大会は1907年。総距離がワンデーレースの中で最長の約298キロもある。1992年大会でケリーは見事優勝。ゴールまで残り7キロ地点にある「ポッジオの丘」の下りで、ケリーは先頭を独走する地元イタリア出身のモレノ・アルゼンティンを、まるで狂犬のごとく一人追走する。ケリーはこの最終局面、ポッジオの上りではなく、下りを勝負所と決めていた。というのは数日前のレースでアルゼンティンは、坂の下りで落車を経験していた。「アルゼンティンは今日のレース、下りは無理して飛ばさないはずだ。恐怖心のせいで。」とケリーは踏んでいた。そしてサンレモの街中に入り、何とゴールまで残り1キロ地点でアルゼンティンに追いつく。最後は2人のスプリント勝負。ケリーは堂々とアルゼンティンを抜き去り優勝した。この優勝がケリーにとって最後のクラシックレース優勝で、彼は1994年に現役を引退した。


そのあと妻と三人で記念撮影をした。勿論サインも頂いてから。丁寧に読み易い字体で”Best Wishes  Sean Kelly”と書いてくれた。ケリーはその日の夕方に開催されるイベントの準備があるということで、正につむじ風の如く去っていった。店を立ち去る直前、ケリーが一言僕に尋ねた。
“Are you a competitor?”(君は選手か?)



ショーン・ケリーと記念撮影

ショーン・ケリーと記念撮影。チャリティーサイクリングのポスターの写真は1992年「ミラノ・サンレモ」のゴールシーン[1995年、キャリック・オン・シュア]



■ さらばもう一度、アイルランド回帰の旅[僕がCOMPETITION BIKE(競走用自転車)にこだわる理由]-前編その6:DANNY BOY -2017/03/26

今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年6月号に掲載された作品です。

■DANNY BOY

次の日、僕たちはOK SPORTSにてバイクをレンタルした。
妻は、サドルが緩んでいるロードレーサーを、僕はヘッドの緩んだMTBを一日借りた。その日は日曜日だった。田舎道でカトリック教会からの帰りらしき家族の一団とすれ違った。どちらからともなく「ハイ」と挨拶していた。僕は走りながら自然と「DANNY BOY」を口ずさんでいた。それ以来、17年以上経過したが、「DANNY BOY」が、こんなにも似合う気分と場面は、未だ経験していない。


道端で見かけたホイールモニュメント

道端で見かけたホイールモニュメント[1995年、キャリック・オン・シュア]

(続く)


※ これまでに公開したシリーズはこちらをごらんください。